夜の雨の冷たさで私はあなたを思い出してしまう
雨が降っていた。
雨が降ることは知っていた。
傘をさしながら人混みを歩くと自分一人だけの空間にいる気がして私は今日を思い出してしまう。
「そういう種類ではないけど、なんかそれっぽいよね」と言った友達の唇の動きが蘇ってくる夜。目を閉じてそれっぽいがどういうものか考える夜。私は傘の中、夜の雨の冷たさで意識を遠のかせながらあなたを思い出してしまう。
あの人とした会話を、あの人が言ったあの言葉の本当の意味を、噛み砕いて、噛み砕いて、噛み砕いて、あの人の顔と言葉が全て脳内でどろっと溶けてしまう。嬉しかった言葉が私に染みこんで、それにドキドキしてみたり悶々としてみたり、体の奥にあの人が巣を作りだす。
隣りを歩いているときに触れる二の腕が熱を感じていた。頭に浮かぶ「すき」の文字を自信のなさと恥ずかしさに負けてデリートキーで素早く消した。得るためには仕方がないのだけど、失うものが大きすぎてあなたと目が合うたびに出現する「好きな人に想いを伝えますか?」のエラーメッセージをキャンセルボタンで消し続けた。
それでも何もないままでは私があまりにも可哀想だと私が騒ぐので、わざとよろけてあなたの腕に体をあずけた。
好きな人のことを好きでいていいのだということを何度も忘れる。
誰のものにもならないでほしいけど、もし誰かと愛し合ってしまうなら私が入る隙もないほど完璧な幸せを私に見せつけてほしい。でもしばらくは、あなたのことを好きになる人に見つからないで私があなたに恋することに罪悪感がないようにしていてほしい。でももし叶うなら、あなたが私だけを見て私だけを好きになってほしい。
セックスの後で男に背を向けて泣いたことのある女に、きっと男は一生敵わない。
あなたに会いたくて寂しくて、どうしようもなくて。こんな虚しい私を救ってくれるのはあなたしかいなくて、あなたに会いたいとぐるぐると同じことを考える夜。あなたがいないと何も始まらないこの恋が私は愛おしくてたまらないのが悔しい。
傘の中、あの人と手を繋ぐだけで逝ってしまえるとふと思った。そうならいいと思った。
私のした些細な行動を見て「優しいね」と言ったあなたの顔を私はしばらく忘れない。忘れられないと分かった。
あなたが嬉しくて笑うときも悲しくて泣くときも私が隣であなたの背中に手を添えることができたなら。それはどんなに素敵だろう。どんなに私は輝くだろう。どんなにあなたは眩しいだろう。
私は無責任に優しいあなたが好きみたいです。無責任に優しいあなたに私という責任を背負わさたくなるほどに。
私は、夜の雨の冷たさで今あなたを思い出しています。
ドライブ・マイ・カーの躍進劇
きっと映画を中心に生活していない人でも一度は見たり聞いたりしたことがある賞だろう。
「アカデミー賞」の作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編賞の4部門に日本の映画がノミネートされたらしい。それはすごい快挙らしい。
正直、細かいことや詳しいことは置いておいて近くに上映している映画館があるなら観に行ったほうがいい。アカデミー賞にノミネートされることの凄さとか、どのくらい驚くことが今起きているかなんてちゃんと理解しなくていい。ミーハー心でいい。観たほうがいい。
きっとネットには、難しいだとか観る人を選ぶだとか、映画評論家ぶった小難しい感想が投稿されていたりアカデミー賞の各部門にノミネートされていることを疑問視して作品自体を良く書いていないものもみつかるだろう。
それでもいい、それでも観たほうがいい。映画に賞を贈る国際的な映画の祭典アカデミー賞の4部門の選考に残っていることは事実なので。どれだけ国内の映画好きがいろんなことを言おうが今起きていることはすごいことなので。日本映画のあの空気感を大きなスクリーンでどうか観てほしい。
というのも、わたしはアカデミー賞にそこまで興味がないけど映画好きとして今「ドライブ・マイ・カー」が日本映画の歴史を変えていることだけは分かった。
心を円グラフで表すとミーハーが80%くらいだった。そんな円グラフを胸に抱いてわたしは映画館に向かった。3時間ドライブ・マイ・カーと真剣に向き合った。わたしはアカデミー賞4部門にノミネートされた作品を映画館で観た。細かいことはなんだっていい、わたしはしっかりとこの作品を観て満足した。
おもしろいとか、おもしろくないとかそんなのじゃなかった。「生きろ」と言われた気がした。わたしはこの作品に「生きろ」という意味を見た。生きて苦しんで悲しんで死んでいけと、それでいいのだと、楽しいとか幸せとか嬉しいとかそれだけが人生の目標ではないのだと、どんな人生でもそれは人生であり生きた先で疲れたと涙を流して終わればいいのだと、愛した人がどんな人間かとか家族に恵まれたかとかそれは生きる時間で起きる一節にすぎないのだと、死ぬまでに起こることはみんな違うけど「死ぬ」ということはそれを疑いたくなるほどにみんな一緒なのだと。
わたしはそんな風に感じた。胸の奥の、いちばん痛みに鈍い部分をドンっと思い切り殴られてやっと少しだけ痛い気がしたような痛くもないようなそんな感じだった。
だから、どう感じてどんな感想を持つかは本当に観た人によると思う。観た人それぞれの感覚でいい。それがこの作品の凄いところじゃないかと、わたしは思う。
誰かの何かに影響されない感想が自分の中に生まれる。それがあなた。それがドライブ・マイ・カー。
気取らなくていい。気負わなくていい。おもしろくなきゃおもしろくないと怒ればいい。涙が出たなら映画館の暗闇に頼って流し続けたらいい。淡々としたシーンが眠気に突き落としたなら眠ってしまえばいい。言葉にならない感情であふれたなら作品をただただ評価したらいい。
「アカデミー賞にノミネートされたらしい。」
そんな理由で映画を観に行くことがどれほど贅沢か。
映画を気軽に観るきっかけにもなってほしい。
自分が分からなくなるとき
あなたが教室にいるとほかの子たちがみんな向日葵になる。
あなたが太陽でみんなは向日葵。
そんな風に小学生のとき先生に言われたっけ。
花に例えるならあなたはダリアね。
ぱぁっと周りを明るくしてくれる。
そんな風に中学生の頃に通っていた塾長に言われたっけ。
わたしのことは、わたしよりみんなのほうが詳しいのかもしれません。わたしはイマイチ自分のことが分からないのです。偽りすぎたのかもしれません。当たり前のようにその場の雰囲気に合わせて自分を変えながら過ごしてきたせいかもしれません。
きっと、わたしだけではないはずです。きっと、ほとんどの人が自分のことなんて分かっていないはずです。自分のことが分からないのか、自分がどのように見られているか分かっていないのかは、似ているけど大きく違うことだということもイマイチ分からない人が多いのだと思います。きっと。
今日もなにもなかったような顔をして帰ってきて、独りそっとため息をつく。
私が私を演じるようになって素直に気持ちを伝えられなくなって。ありがとうもごめんなさいも素直な気持ちじゃなく、その場の雰囲気を守るための合言葉のようになって。人の顔色と自分の見た目には敏感で貪欲で、たまに流れる涙はいつも悔しさと悲しさからで。こんな人間は腐るほど存在していて、きっとみんな一人のときはこんな感じなのだろうと考えては安心して。でも、本当はみんなと一緒なんて嫌だった。私は特別がよかった。
悩み事は尽きない。そなことで と笑って流されるようなことでも、私の中では人生の岐路に立っているように感じるほど大きなことだった。いつも何かに悩んでいた。悩んでいないときはなかったのに、3年前の悩み事なんて一つも思い出せなかった。「3年後も同じことで悩んでいたら一緒に悩んでやるよ」と私を元気づける風でもなく軽口をたたくように言った人のことを思い出す。あなたは正しかったかもしれないけど、3年後ではなくあのとき悩んでいるふりでもいいから私の隣で一緒に答えの出ない悩みに頭を抱えてほしかった。たぶんそれだけで私は十分だった。
私の魂と私の肉体が一致していないように感じるので気持ちが悪いのでした。私自身がなんとなくちぐはぐな気がして落ち着かなくなることがあるのでした。電気の消えた暗い部屋で眠りに溺れるその瞬間に魂だけがふわりと浮いて、独りでいる私の肉体を見ている気がするときがあるのでした。朝起きて鏡に映る私を見て「だれ?」と問いかけてしまうこともあるのでした。これはもしかすると、とても正常なことなのかもしれないと思ってしまうことが異常だと自覚しているのでいした。
そうやっていくつもの夜をこえてきた。何回も朝になり夜になる一日を過ごしてみても自分自身が見えてこなくて、もうなにを見失っているのかも忘れるほどで。たまに、死後は魂だけがまた新たな命とつながり、今のわたしとは違う人生をこの魂が生きていくのかもしれないとぼんやりと考える。その感覚が恐ろしくて寂しくてたまらないことがある。
今の人生を終えてないのに、次の新しい人生を考えると内臓が凍るような恐ろしさを感じる。
実家に帰ってきて小学生の頃から高校生まで毎日使っていたセミダブルのベッドに横になりながら、またこんなことを考えてブログを開いて文字にしている。
一人暮らしの部屋に置いているシングルベッドより広いこのベッドは買ってもらったときはとても広く感じた。寝転ぶと自分がすごく小さく感じるくらいだった。今思うとこのベッドの広さも、寝返りをうっても落ちないように という親の小さな優しさなんだと気づいて溢れる気持ちが頬をつたう。
何十年生きても自分がよく分からないけど、それでも内側にあるこの感覚を作りだす魂を裏切らないようになるべく自分を持って正しく生きようとしている自分のことは誇りたい。
そんなぼやっとしたことを実家という、わたしの聖地で思うのでした。
コーダ で見る障害を持つ家族を持つということ
耳が聞こえない両親と兄と、家族で唯一の聴者の主人公ルビー。
わたしは観終わって映画館を出るのが恥ずかしいくらいに涙を流して目を腫らしたけれど、ほかの人はなにに涙を流すのか、観た人の細かな感想や感情の動きを知りたくなった。
わたしはあまり大きくない街で育った。父と母、兄とわたし。そこに視覚障害のある祖父とうつ病の祖母、知的障害のある伯母(父の姉)が加わった家族だった。わたしは家族の話をするときにこの特徴をわざわざ説明することは少ない。それは家族のそれぞれの特徴でわたしの特徴ではないから。
楽な幼少期ではなかった。
ひとりひとりのエピソードを書いていたらキリがないほどいろんなことがあった。中でも、知的障害を持つ伯母は難しい存在だった。わたしが生まれてすぐの頃、伯母はわたしを人形のように扱って伸びてもいない爪をまだまだふにゃふにゃで柔らかい赤ちゃんの指先の皮膚まで一緒に切って血だらけにしたり。泣き止まないわたしがうるさくて布団叩きで叩いていたり。むちゃくちゃに触るせいで赤ちゃんの柔らかい頬っぺたが傷だらけになっていたり。おかげで、わたしの顔にはいまだに傷が残っている。唇の端から頬にかけて薄くしっかりと傷がある。
赤ちゃんの頃のことは母に聞いて知っている程度だけど、私自身のことより少し目を離したら我が子がそんな扱いをされてしまう母が可哀想になった。どんな思いで子育てしていたのか聞くのも怖くていまだに聞けていない。
何かあるとすぐ警察を呼ぶ伯母。注意をしにくる警察や福祉課の人。いつも注意を受けるのは健常者の父と母だった。わたしは高校生にもなると反抗期のせいか警察や福祉課の人に意見するようになった。その意見の内容は幼いころからずっと不思議だったこと。障害のある家族を持つわたしたち家族は誰が守ってくれるのか。障害者を支える家族のことは誰が支えてくれるのか。
24時間テレビやドキュメンタリーや映画やドラマで観るものがいかに綺麗なものかわたしは知っている。きっと問題の少ない家庭もあるのだと思うけれど、わたしの知っているものはあまりにも過酷だった。
前振りが長くなったけれど、コーダでも少しだけわたしが感じたことのある苦しみが見えて主人公のルビーを抱きしめたくなった。手話が家庭内の共通語でそれは彼女たちの「普通」であることと、ルビーにとってそれが当たり前なのに学校や小さな街というコミュニティの中では「普通ではない」レッテルになってなかなか剥がれずルビー個人の特徴かのようにされてしまうこと。この差はなかなか埋めるのが難しい。
ルビーが選んだ道が、ルビーにとって後悔なく輝くものになってほしいと心から思った。どんな選択をしてもタラレバを考える瞬間がある。それでもルビーが初めて自分だけのためにした選択が最善だったと思えるような人生につながってほしいと思う。
コーダ あいのうた が支える側を支えることの必要性を気づかせてくれる作品になればと願う。家族を裏切れない責任感にすべてを押し付けていいのか、家族であるけれどひとりの人間の人生を尊重しなければいけないこと、その選択は社会の風潮などで決まらないこと、選択肢が用意されることを願う。
きっと、偏った観方をしているし偏った感想になっているけれど感動作で終わったらもったいないと思うほどに真に触れる作品だったのでこの作品でもう一歩先の何かに到達できたら…と思わずにはいられませんでした。
支える側の人に、なるべく多くの人にこの作品が届きますように。
SNSとかフォロワー数とか
SNSがわたしの生活の一部になってもう10年くらいになる。
スマホが普及して一気に身近なものになった。Twitterは初めてわたしが始めたSNSで、これに慣れてしまっているから他のInstagramやTikTokに違和感があってアカウントを作るだけで、投稿などはほぼしていない。
3年半くらい前に、YouTuberがすれ違う女性の容姿を罵倒し「ただいまブスにつき映像が乱れております。」だとか言う動画を載せたことがある。小さな炎上が起きて、彼らのファンはそれでも守る言葉を並べていたし、彼らも罵倒している女性には動画の内容を撮影前に説明済みであることを盾にして謝罪の動画を載せて再生回数をのばしていた。
当時、有難いことにある程度のフォロワー数があるTwitterアカウントを運用していたのでこの騒動が簡単に鎮火してしまう前に一石を投じて小さな影響を与えることができたのだけど。
ネットが普及していろんな人が意見を投げやすくなったけど、その声に大小の差があることはもどかしい。その差は発言内容の正しさではなくフォロワー数の差による場合が多いから悲しい。発言権が大きい人がどう見ても丸いものを四角だと言えば、それに続いて四角だと言い始める流れに違和感がある。フォロワー数や登録者数は努力の結果だと思うけれど、ネットを利用するのが当たり前なこの世の中で自分を、自分の意見を、気持ちを、感覚を、声の大きな人に影響されて気づかないうちに失くしてしまうことを恐れてほしい。わたしはそれを恐ろしく感じることを忘れたくないと思っています。
先に出したYouTuberの件も。
目指すものや憧れるものはそれぞれ違うけど、綺麗でいたい可愛くありたいと思っていない女性なんていない。動画内で容姿に触れられる女性だって、説明を受けていたとしても嬉しい内容ではないはずだと思った。ちなみに、これは女性だから男性だからで感想は変わらないし、そこに差があってはならないと思う。
そして、見ている側の気持ちも。とてもじゃないが、容姿を貶し笑う様子を見てよい気持ちにはならない。逆に動画内ですれ違いざまに言われる酷い言葉を見て、もし面白いと思えるならその感覚を改めたほうがいい。好きなYouTuberがやっていることを全て肯定するのはファンだからではない、洗脳だと思う。
わたしはこの一件があって、SNSを含むネットとの付き合い方を見直した。
フォロワー数や登録者数の多い人が、どう考えても間違っていることを正解だと言えばその通りになってしまうネットの中ではわたしの感覚が迷子になって帰って来れなくなる気がしたから。
SNSの中に憧れの人や目標の人ができて、それが人生を明るくしてくれることはすごく良いこと。でも、自分も素敵だって気づいてね。
あなたを殺してしまわないでね。この時代に負けないで。