mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

たかが世界の終わりの息遣い

 

 

地元を離れた人がこっそりと感じる。

「もうここには私の居場所がない」

 

 

 

 

グザヴィエ・ドランが魅せる世界は呼吸の音が聞こえてくる。それはスクリーンに映る彼らの呼吸音なのか、見つめるわたしの呼吸音なのか。グザヴィエ・ドランの撮る世界をわたし達は体験したことがある、その世界のどこかにわたしがいる。

 

 

 

家族は空気がパンパンに入った風船みたいだと思う。誰かが少しでも爪を立てると簡単に破裂してしまうと分かって、指先の小さな動きを敏感に感じとっては風船を守り続ける家族。

 

 

小さな頃はなんだって話せた。話したいと欲に押しつぶされるように、追いかけまわして話しかけた相手は家族。背が伸びる毎に言えないことが増えていく、家族以外に大切な人ができていく。まだまだ未熟な頭と体で初めて好きな人と結ばれた日。幸せと恐怖と一緒に罪悪感におそわれたのは、家族に言えないことがまた一つ増えたから。

 

 

 

家族みんな仲良しだと話していた笑顔の可愛いあの子は実家を出て遠い地で就職した。たまに帰ってくるあの子は違う空気に包まれてどこか居心地が悪そうで、それでもすごく綺麗だった。みんなからの眼差しを、可哀想に とでも言うように受け止めて「やっぱり地元は落ち着く」と嘘を残してまた居場所に戻っていく。

 

家の中で笑うと殴られる。自分の意見を言うと抑え込まれると腫れた顔を涙で濡らしながら光の宿らない目で私を見ていたあの子は今もまだ実家で暮らす。それはある意味の復讐であって、その一点でしかバランスの取れないコマを倒さないようにと自分を犠牲にしながら回るコマを守る依存のようで。

 

「ババアが死んだから祝おう」と声をかけてきた先輩は15歳で家を飛び出した。もうとっくに大人になって子供がいるその人は、実の母親が亡くなったと幼馴染から知らせを受けて震えながら喜んだ。本当は泣いているのではないかと心配しながら駆けつけた私たちを蹴飛ばすように大きく笑いながらパーティーを開く。人を憎むというのはこういうことなのだ。それが家族であるからややこしい。なぜ家族を憎むのかなんてどうだっていい。ここまで憎む。それが答えなのだから理由なんて聞いてやるもんか。

 

 

 

 

 

家族に求めるものは確かに愛だった。確かな愛だった。私たちは誰かの子供だった。ずっと誰かの子供。だから愛して欲しかった。私たちが愛する前に愛を与えて愛を教えて、当たり前であるかのように愛させて欲しかった。

 

わたしよ。私が泣いていないかと覗き込む私よ。素直になれと言われて息が詰まるほどに家族からの愛を欲しがって床を殴りながら叫び続けた私よ。本当は今までに何度も泣けたはずで、本当は毎晩泣けるはずの私よ。

 

 

 

許すことも認めることも、理解さえできない人。家族である前に独りの人間なのだからと折り合いをつけましょう。心から許せなくたって不器用に笑い合いましょう。軽く交わした「またね」が最期の会話になったとしたらきっと泣きますから。

 

他人に言いたくないような、言うことができないような家族に向かうこんな感情さえも例えるなら家族愛と呼ぶのでしょうね。