mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

グッド・ウィル・ハンティングみたいに

 

グッド・ウィル・ハンティングを観たことがある人はこの世界にどれくらいいるだろう。

 

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幼い頃に観たグッド・ウィル・ハンティング。その幼さは年齢ではなく心の若さ。おしゃぶりを咥えている子供の目を見て、その純粋で汚れを知らない瞳に写ってしまうのが怖いと思うくらいに大人になって観るグッド・ウィル・ハンティングは全く別物だった。

 

 

子供の頃に思っていたほど大人は立派ではなかった。誰かの成功に心から拍手を送ることができるほど余裕がある大人は少なかった。その人の凶暴さは弱さを表すことができない人間のSOSだと気づいてもその傷に触れようとするほど大人は勇気がなかった。ポケットから落ちる財布を見かけても持ち主に声を掛けることなく見て見ぬふりする大人は、財布を拾い上げて中身を抜いて捨てるそれと大差はない。

 

 

子供のわたしは、いつまでも子供の思考でいるわたしは、子供の立場でしか物事を考えられないわたしは、年齢と体だけが大人になってしまう。

 

人を信じることが苦手で、期待をしないことで自分を守り傷つかないようにとバリアをはりながらもそのバリアを破って両手で頬を包んでくれるような、まるで空から舞い降りてきたわたしだけの天使のような存在を待ち続けていることに気づいている。

 

人を疑うことはその人を知ろうとすること。ぶつかり合いたくはないけれど、なんでも理解してくれる人より理解しようとしてくれる人と一緒にいたい。理解し合える関係は理解し合えないことが見つかったときに崩れ落ちてしまいそうだから。

 

凄い人になりたいというよりは「それは違うと思う」と声に出すことができて、それを言うことを許される人になりたい。それを認めてくれる人とめぐり逢い続けたい。わたしはそんな人生を送れるなら息切れしながらでも、ボロボロになりながらでもアザだらけで血が流れだすほど傷だらけになってしまうような日々だとしても生きたい。わたしはただ生きて人生を過ごしたい。

そんなわたしを見て、馬鹿だと笑う人に微笑み返したい。そんなわたしを見て、顔も名も知らぬどこかの誰かが生きようと思ってくれるなら、それがたった一秒間しか続かなかった「生きよう」だとしてもそれでいい。それでもいいよ。

 

私達は知っている。知っているから知らないふりをする。私達が知っていることが全てではないことを、知らないことが多すぎて知ることが難しいことを。

知らないことだらけのこの世を楽しむには、許し許される関係に溺れるときも必要で実はそれが一番の解決策だということに気づいていても許せない自分たちを許してあげたい。歩き疲れて腰を下ろして遠くを見るでもなく見る時間を過ごさせてあげたい。

 

 

わたしという人間が失われるとき、人生という長い長い自己紹介が終わるとき、わたし自身が「わたしは綺麗だった」と思いたいのです。自惚れて命を手放したいのです。もちろん、綺麗の定義は辞書の通りではありません。

 

 

どうか素晴らしい人生を過ごしてください。

もちろん、素晴らしいの定義は辞書の通りではありませんから。それぞれに素晴らしくあり続けてください。

たまたまここにたどり着いて、たまたまここまで読んでくれた画面の向こうのあなた。あなたです、あなたの人生が幸多かれと願っています。