2021年の問題作
もう12月なのかと腕時計に表示された日付が目に入り気付かされた。木の葉が地面をこする。本当は落ちたくなかっただろうに、赤や黄色に染まっているときはあんなに愛されていたんだから。まだ落ちて踏まれたくないだろうに。今年が終わろうとしている。今年が逃げ切ろうとしているのでまだ捕まえておこう。
2021年、女性の性被害がテーマとして描かれた二作品がわたしの感情を乱したので今年が逃げてしまう前に、今年が過去にされる前に刻み込んでおこうと思う。
プロミシング・ヤング・ウーマン
所謂、映画界隈の間で口コミが広がり映画館に足を運んだ人も多いのではないかと思う。
最後の決闘裁判
わたしがこのブログをスタートさせる決意を固めさせてくれた作品。
プロミシング・ヤング・ウーマンは、記事にしていないのでいつか決心がついたら書いてみよう。
最後の決闘裁判はわたしの初投稿記事で感想を書いてます。よかったら。
最後の決闘裁判 感想(ネタバレ有り) - mumu’s blog
「おもしろい」
日本語は難しい。おもしろいという言葉の中にいくつもの意味が含まれているから受け取る側と発する側でズレが生じてしまう。
女性が被害にあったり、そのことが作品のテーマや重要な局面で描かれる映画やドラマは溢れかえっている。こういう作品が注目されるのは全ての人間が当事者になり得るからなのかもしれない。そして、毎回感じる違和感は毎回解消されることはない。
ひとつの作品から現代の社会問題として語られるそれらは、いつもどこか他人事に見えた。いつも悲しいくらいにエンターテイメントだった。観る人を増やして問題を突きつけなければいけない、そのマーケティングは間違っていないのだけど。
観る人が増えれば、「それ」に対しての意見が増える。おもしろいと表現するにはあまりにも苦しい作品やテーマだとしても、エンターテイメントを純粋に楽しんだ人の口から出る「おもしろい」はあまりにも不釣り合いで残酷だとわたしの目にはそう写る。
おもしろいという感想の全てが悪だとは言わないし、思わないのだけど。
レイプという表現を頑なに使わなかった作品の制作者の配慮に有難さと痛いほどの優しさを見たはずだった。溢れかえる感想の中にその表現を見てはちくりと胸が痛んだのはわたしの弱さだった。
シャワーヘッドから排水溝にお湯が流れ続ける。いい加減止めてほしそうにさえ見える排水溝の渦に目が回る。何時間シャワーを浴びれば許されるのかなんて的外れに思考を回す。何時間お湯をかければ綺麗になるのか、一生かけても無理そうだった。何時間こうしているのか分からなかった。シャワーを浴び続けた体が震えるのは寒いからではないことだけは分かる。何時間前に押し倒されたか考えたくないだけなのだと気づかないように、記憶を沈めるためにもう少し体をふやけさせようか。
今日も独り。外に出ることができずまたベッドに入る。もう忘れたら?時間が解決してくれるよ と優しくかけられる言葉に不信感と恐怖を抱く。私を思ってかけられる一見優しい言葉は重くのしかかって追い詰める。自分を守るために逃げることも大事だと、逃げることは悪くないと朝の情報番組のコメンテーターがこちらに目を合わせるように力強く言う。学校に行かないことが、仕事を辞めることが解決させるものはなんなんでしょうか。恐怖から逃げ出した私は家の中で、私を家から出られなくしたあの人は今日も変わらずあの場所で笑っているのに。
逃げないでもいい世界はいつ私を迎えに来てくれますか。
傷ついた誰かはいつも口を開かない。語られない真実は彼女達の記憶の中だけで暴れまわる。消せない過去は消えない過去だった。時間が解決してくれることは忘れられるものだけなのだと知った。経験しなくていいことを経験して、またひとつ世界を憎む。それでも明日は必ずくる。寝てしまったら明日になるからと目を閉じることを先延ばしにしたくなる。寝ても寝なくても明日は来るので寝たほうがいい。安心して眠ってほしい。
わたしは、誰かのために気をつかっていたい。たとえ必要のない配慮だとしても。思い出したくない、掘り起こしたくない映像がある人の目には映ってほしくない作品はどれほど高評価だとしても「おもしろい」とすすめたくない。それが誰かは分からないから難しいけれど。「誰か」はみんなであることを忘れないようにしたい。軽く言葉を交わしてくれるその人も大きな傷を抱えています。
全ての人が第三者ではない。