mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

ラスト・ナイト・イン・ソーホーのメッセージ

 

映画になにを求めるかは人それぞれで、その映画から何を感じてどう評価するかはそれぞれの感性によるのでわたしが感じたものを誰かが感じていなくとも、誰かの感想がわたしとは全く違うものでも、それは至極当然のこと。

 

 

 

 

2022年の初映画館は2021年の作品だった。

ラストナイト・イン・ソーホー

 

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わたしは所謂フェミニストなのかもしれない。わたしは女性の無力さを知っている。それは歴史的なものでも、現代にも広がる女性差別的な社会問題でもない。単にわたしが生きてきた世界の話。単にわたしや、わたしの知る女性の日常に起こるもの。

 

2021年はME TOO運動に影響を受けてか、賛同する著名人が多かったためか、女性搾取を扱う作品が多く、映画からグサリと刺さるようなメッセージが発信され続けた1年だった。そのせいか、昨年は例年に比べていろんなことを考えた。考えさせてもらえた。いろんな意見を見聞きすることもとても多かった。悲しくなるような、苦しくなるような意見もたくさんあったけれどそりゃそうだ。現実はもっと苦しいのだから。涙スイッチを押してくるような意見や発言は溢れている。ネットにも現実にも。仕方ない、みんな違う考えを持っている。

 

そんな1年を過ごしたわたしは、ラスト・ナイト・イン・ソーホーに足を引っかけられたような気持になった。女性搾取問題をホラーに落とし込むことで女性の起こした行動がホラーに繋がる虚しさを感じてしまった。これはわたしの勝手な気持ちなのでこの作品に謝らなければいけない、反省しなければいけない。

 

 

 

 

 

 

私たちは余裕がない。自分で思っているよりもっともっと。私たちは余裕がないから懸命に暮らす。学校であったり仕事であったり、頑張ることで自らを削ることで社会の一部になる。頑張っている自分に安心すらしているのかもしれない。頑張っていないと社会という和に入れない気がするのかもしれない。そうやって削り続けて薄くなった自尊心が私を突き放す。「お前いらない」

 

逃れることも抗うことも勝つこともできないような無敵な加害者は社会だった。社会という加害者に抱きかかえられるように吞み込まれる命ある私たち人間。私たち全員が被害者だった。被害者は被害者を生む、この連鎖を作ったのも社会。生きている間は社会に抱かれ続けなければいけない。社会はあまりにも残酷だった。社会はほとんどの時が優しくなかった。

それでも、人はときどき優しかった。たまに気持ち悪いくらいに優しい人がいる。伸ばしてもいないこの手を取って引っ張ってくれる人がいる。世界は社会に呑み込まれた私たちをたまに気にかけてくれる。生きることは簡単ではないけれど、世界には人生よりいいものなんてない。

 

 

 

 

わたしは、18歳のときに性被害にあった。

若いうちはよくあることだと言われた。シャワーを何時間も浴びた。記憶も感触も流れてはいかなかったけどそうするしかなかった。一人暮らしを始めて間もない、まだ夜は肌寒い夏の前だった。

わたしは、「若いうちはよくあること」をなくしたい。年齢なんか関係なくなくしたい。そんなものはあってはいけない。もうシャワーを浴びながらそこに誰もいないのに、誰にも聞かれないようにと声を殺して泣き続けた18歳のわたしのような女性をこの社会に存在させたくない。警察に行く勇気もなかったわたしを恥じている。加害者を加害者にできなかったせいで二次被害者を生んだことをいまだに後悔している。

 

もう負けたくない。弱いけれど弱いだけでは終わらない人間になりたい。

 

 

負けるな、ぜったいに。

負けるな女の子。