mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

コーダ で見る障害を持つ家族を持つということ

 

耳が聞こえない両親と兄と、家族で唯一の聴者の主人公ルビー。

 

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わたしは観終わって映画館を出るのが恥ずかしいくらいに涙を流して目を腫らしたけれど、ほかの人はなにに涙を流すのか、観た人の細かな感想や感情の動きを知りたくなった。

 

 

 

わたしはあまり大きくない街で育った。父と母、兄とわたし。そこに視覚障害のある祖父とうつ病の祖母、知的障害のある伯母(父の姉)が加わった家族だった。わたしは家族の話をするときにこの特徴をわざわざ説明することは少ない。それは家族のそれぞれの特徴でわたしの特徴ではないから。

 

楽な幼少期ではなかった。

ひとりひとりのエピソードを書いていたらキリがないほどいろんなことがあった。中でも、知的障害を持つ伯母は難しい存在だった。わたしが生まれてすぐの頃、伯母はわたしを人形のように扱って伸びてもいない爪をまだまだふにゃふにゃで柔らかい赤ちゃんの指先の皮膚まで一緒に切って血だらけにしたり。泣き止まないわたしがうるさくて布団叩きで叩いていたり。むちゃくちゃに触るせいで赤ちゃんの柔らかい頬っぺたが傷だらけになっていたり。おかげで、わたしの顔にはいまだに傷が残っている。唇の端から頬にかけて薄くしっかりと傷がある。

 

赤ちゃんの頃のことは母に聞いて知っている程度だけど、私自身のことより少し目を離したら我が子がそんな扱いをされてしまう母が可哀想になった。どんな思いで子育てしていたのか聞くのも怖くていまだに聞けていない。

 

 

 

 

何かあるとすぐ警察を呼ぶ伯母。注意をしにくる警察や福祉課の人。いつも注意を受けるのは健常者の父と母だった。わたしは高校生にもなると反抗期のせいか警察や福祉課の人に意見するようになった。その意見の内容は幼いころからずっと不思議だったこと。障害のある家族を持つわたしたち家族は誰が守ってくれるのか。障害者を支える家族のことは誰が支えてくれるのか。

24時間テレビやドキュメンタリーや映画やドラマで観るものがいかに綺麗なものかわたしは知っている。きっと問題の少ない家庭もあるのだと思うけれど、わたしの知っているものはあまりにも過酷だった。

 

 

 

 

 

前振りが長くなったけれど、コーダでも少しだけわたしが感じたことのある苦しみが見えて主人公のルビーを抱きしめたくなった。手話が家庭内の共通語でそれは彼女たちの「普通」であることと、ルビーにとってそれが当たり前なのに学校や小さな街というコミュニティの中では「普通ではない」レッテルになってなかなか剥がれずルビー個人の特徴かのようにされてしまうこと。この差はなかなか埋めるのが難しい。

ルビーが選んだ道が、ルビーにとって後悔なく輝くものになってほしいと心から思った。どんな選択をしてもタラレバを考える瞬間がある。それでもルビーが初めて自分だけのためにした選択が最善だったと思えるような人生につながってほしいと思う。

 

 

コーダ あいのうた が支える側を支えることの必要性を気づかせてくれる作品になればと願う。家族を裏切れない責任感にすべてを押し付けていいのか、家族であるけれどひとりの人間の人生を尊重しなければいけないこと、その選択は社会の風潮などで決まらないこと、選択肢が用意されることを願う。

 

きっと、偏った観方をしているし偏った感想になっているけれど感動作で終わったらもったいないと思うほどに真に触れる作品だったのでこの作品でもう一歩先の何かに到達できたら…と思わずにはいられませんでした。

 

 

支える側の人に、なるべく多くの人にこの作品が届きますように。