日に焼ける夏
赤信号を見つめて一歩踏み出すのを堪える君の背中を見つけて釘付けになった。
朝の空気の中にいる君がキラキラして眩しくて目を逸らすのはもったいなかった。
青信号になるまでに追いついたら話しかけようと決めて歩調を乱さないように冷静に右足と左足を交互に前に出す。追いついてしまったら何を話せばいいだろう。
夏が私たちを捕まえようとしていた。ワイシャツから出た腕が太陽に焼かれ始めている。日焼け止めを塗り忘れたことに気づくのは大抵が学校が見えてきた頃だった。
学校の中で君を見つけるのが私の特技になって、笑った声が聞こえると私は無意識に君を探した。君がいる場所はいつも特別に見えた。君が中庭を歩けば四つ葉のクローバーが咲き乱れていくみたいだった。
日焼けした君の腕が好きだった。日焼けした君の首筋が好きだった。私の日焼けした腕なんかとは比べ物にならないし、君がいる夏の中と私がいる夏の中は別世界みたいだった。
「おはよう」
君に声をかけるために必死に言葉を探してみてもなにも思い浮かばない自分の脳みそを呪いながら絞り出した声。
挨拶はなんて都合のいいものなんだろう。おはようくらいは言ってもいい。おはようくらいは目を合わせて言ってもいい。おはようくらいは自分から言ってもいい。なんて都合がいいんだ。
「おはよう」
君から発せられるおはようはなんて綺麗なんだろう。私が言ったおはようと同じものなんて嘘みたいだ。
夏が来るから私も君みたいに輝きたい。
できれば、君のとなりで輝いてみたい。
日本には四季がある。
気が付けば冬は春になって春は夏に変わろうとしていた。
わたしの秋は駆け足で過ぎていった。と言いたいけれど、わたしの秋はスキップされた。秋がスキップされたのか冬がスキップされたのか、思い返しても判断できないほどにそこの数か月の日々とわたしが「次へ」ボタンで飛ばされているみたいだ。
気が付けばわたしの髪は腰にあたるようになった。
くすぐったい腰がわたしのスキップされた時間を思い出させるように脳に刺激をおくる。
文章を書きたいと思ってパソコンをひらく。
定期的に書けていなくても、わたしは書くのが好きなのだ。
自分自身のことを書かなくても、空想のなにかを書いていても、頭の中が整理されていくからこうやって文字を並べることが断捨離で大掃除になる。
書くのが好きなのに、自分自身のことを細かく書くのが嫌なのは自己開示して誰かにわたしを知られるのがバカらしいから。書いても書いても足らないくらい、わたしという生き物は面倒くさい。面倒くさいわたしを何百文字 何千文字を使って開示したところで知ってもらえるのはほんの一滴程度。喉が渇いているときに飲む一滴の水が何の意味もないのと同じ。そういう感覚でいるわたしはやはり非常に面倒くさいじゃないかと苦笑しながらパソコンを鳴らしている。
春が終わった。
もうGWも終わった。世界は夏になる。
季節においてけぼりを喰らったわたしの世界はこの狭いひとり暮らしの、こたつが広がる部屋の中で冬にしがみついていた。
なんて言っている場合ではない。暑いだけだ。ただ暑くなる日々にビビったのだ。
こたつ布団とラグを抱えて向かいのマンションの一階にあるコインランドリーに駆け込んだ。
そろそろこたつ布団とラグがホカホカのフカフカになる頃だ。
わたしの夏が始まる。
好きな人が優しかった

中学1年生のときに転校生が来た。僕の地元は地方の山奥だった。クラスメイトも先輩もみんなだいたい知った顔でだいたいが田舎特有の家族ぐるみの付き合いをしている者同士だった。
そんな田舎の中学校に転校してきた男はいわゆる不良だった。前の学校でも、その前の学校でも何かをしでかして通えなくなったらしかった。田舎だからそんな噂はすぐに広まったし、誰が言い出したのかも分からなかったけど噂はどうやら本当のことらしかった。
その転校生は山川君といった。
山川君の家は母子家庭だった。お母さんは山川君を育てていなかった。もちろん制服を買い、学校に通わせ、人並みに部活をさせ、食べ物を与えてはくれていたから山川君は育ってはいたんだけど。山川君のうちは「家庭環境が悪い」っていうやつだった。同じ住所の同じ家に住んでいる母親という女を前に13歳の少年は、模範的に反発しぐれた不良少年だった。
洗濯をしてもらえない山川君は香水臭かった。香水の向こう側に野生の人間のにおいがした。それを隠すために香水をつける中学1年生の男を田舎者の僕は同級生として素直に受け入れた。田舎の中学校だったからクラス替えもなくて、だから当たり前に僕と山川君はずっと卒業するまで同じクラスだった。
月曜日、学校に行くと顔に傷をつくった山川君が「街で絡まれた」とか言ってくることがあったけど僕には関係のないことだったから深く聞かないことにした。また別の月曜日、山川君は学校に来なかった。火曜日になって登校してきた山川君は「ナイフで切られた」って制服のシャツを捲って腹を見せてきたことがあったけど、それも僕には関係のないことだった。電車で1時間かけて街へ行き、山川君がそこでどんな奴らとどんなことをしているかなんか分からなかったし、きっと山川君も僕にそのことを細かく知られたいなんて思っていなかったと思う。
僕が山川君と仲良くできたのは、山川君が笑うと嘘みたいに優しい顔になるからだった。あいつ、いい顔するんだよ。いい顔だったんだ、一緒に遊んで同じ野球部でふざけり女子の更衣室をのぞいたりして田舎の中学生らしいことをしてるときのあいつ。あいつもただの中学生の男子だった。
3年生のとき、山川君と体格のいい男子が教室で殴り合いの喧嘩をしたことあった。人が殴り合っているのを生で見るのはそれが初めてだった。どちらかがイスを投げて教室の窓ガラスが割れた。どっちが投げたかの判断ができないくらい僕は動揺したし、このままではどっちかが死んでしまうんじゃないかと思って咄嗟に喧嘩を止めに入った。顔面に一発くらいは喰らうかもしれないという覚悟で2人の間に入って2人の胸をはじき飛ばすように強く押した。「もうやめろよ」僕は恐怖のせいか妙に興奮して声が大きくなった。あれだけ暴れていた2人が僕には手を出さなかった。きつい言葉も浴びせてこなかった。山川君はそういうところがあった。根は情が深い良い奴だった。
山川君とは別々の高校へ進んだ。僕は高校を卒業して大学に進んで地元を出た。いつだったか、山川君は高校生のときに少年院に入っていたことを聞いた。田舎だからそういう話しはみんなに知れ渡っていた。もう僕は山川君にわざわざ会うことはないけど、山川君はどうやら僕たちが出会った僕の地元で力仕事をしながら家庭を持ち、子供を育てているらしい。子供を可愛がっているらしい。山川君はそういう大人になると、僕は思ってた。
そうやって思い出話しをしてくれた私の好きな人。好きな人が中学生の頃から人を見た目や噂で判断しない優しい人で嬉しかった。
好きな人が優しかった(PEACE!)ってモーニング娘。が脳内で歌って踊る。
正しいマスクの使い方
マスクで顔の半分、口元が隠れていることで煩わしさや気になる人の顔の全体像を把握できなくてもどかしさを覚える。それがコロナ禍における恋愛の障害のひとつなのかもしれない。

好きだと認めたくはないけど、きっとこの気持ちを何かの単語であらわすと”好き”以外のなんでもないことは私が一番わかっていて、私が一番認めてはいけない気がして上手く誤魔化せもしないのに誤魔化すように笑って”好き”を散布する。
大人になるということは恋をするのが容易ではないということだと、容易ではない恋につまづきながらカップ焼きそばのソースが絡んでない白いところを割りばしでほぐしながら思った。
人には言えないあれやこれやが私の中に層をつくる。甘いあれや、甘くはないけど思い出の土台になるこれや。あれやこれや。あれやこれやでミルクレープができましたよって意味の分からないことを大真面目な顔であの人に報告して困らせてみたい。
自信のない女だから、きっとマスクがなかったら見つめあうこともできなかったろうなと思うのです。マスクをつけないころから出会っているあなたのマスクなしの顔を私はもうあまり思い出せません。マスクを外して面と向かう機会がないほどには私とあなたは後ろめたいことがない関係なんだと少し安心もするのです。
コンプライアンスだとかセクハラだとか。恋の邪魔をしてくれるもんだから、じれったい。じれったいったらない。
「可愛いって思っててもセクハラになるから言えない」
「それは私のことを可愛いって思ってるってこと?」
「それも言わない」
「思ってること言えないって地獄だね」
コンプライアンスだとかセクハラだとか、そんなものは恋の障害物競争をヒートアップさせるだけなんだよ。どうかいくぐって甘い一言を手に入れるか試行錯誤していつの間にか恋に落ちちゃうんだよ。恋は大きい落とし穴。あ、本気のセクハラおじさんはコンプライアンスなんて理解してないから独走状態でみんな引いちゃってる。気を付けましょう。
それでも、この世の中には好きになってはいけない人がいます。
恋のアクセルを踏んでしまうあれやこれやが起きると、アクセルべた踏みになることはこれまでの人生で十分すぎるほどに知っているから右足には常にブレーキを踏ませているはずでした。でも、人間ですから。たまに疲れて足を休ませる瞬間がありますし、たまにブレーキの効きが悪いことだってあります。
好きになってはいけない好きな人の姿を探してキョロキョロしながら歩く日も一週間のなかで5日くらいはあります。ありますとも、好きになったらダメなだけで好きにはかわりありませんから。誰にも言わないから私くらいは私の素直な気持ちに服従して好きを認めてはいけない人の姿を見つけて、声なんか届くはずもない距離からマスクの中で「好き」って小さな声で言うんです。
周りの人たちにも私が好きって言ったあと悔しくなってマスクの中で唇を噛みしめてることなんて気づかれないですから。
ずるい女だから、あなたが私の目を見て世間話をして笑っているときも実はマスクの中で息を吐くくらいのすごく小さな声で「好き」「好き」「好き」って言ったこともある。聞こえるなって、伝わるなって思いながらも心臓のリズムが狂って体中の血液の波が私を飲み込んで溺れさせようとしてるみたいでトリップしそうだった。
あの人もマスクの中で「好き」って言ってたらいいのにね。
これが私の正しいマスクの使い方。
映画 「わたしは最悪。」
わたしは最悪。

どうやらアカデミー賞の脚本賞 国際長編映画賞にノミネートされた映画らしい、どうやら20代後半~30代の女性に刺さるらしい、という少ない前情報だけでなるべく知識や情報や人の感想を入れずに観に行った。
アラサー女性の主人公 ユリヤは頭がよくて、ヘルシーなビジュアルで愛嬌もよくて天真爛漫で、自分の価値を理解しているように見えた。
医学部に入ったけど肉体を切り刻むのは趣味じゃなかった。興味があるのは人の一番内側。心理学を学ぶことに決めた私は家族や友人から「いい決断だ。勇気がある。」って褒められた。デートで行ったカフェの写真を見返していたら写真の才能に気が付いた。カメラマンになる。もちろんいいカメラを買った。学生ローンでね。
いい男と付き合いたい。となりにいたら絵になるような人がいい。
でも、見た目だけじゃダメ。尊敬できる人がいい。
私より凄い人と一緒にいるとなんだか惨めになる。私には誰も注目しなくなるから。彼とつり合うために努力するのは嫌いじゃなかったけど、本当の私でいたい。自分を見失いたくない。自然体でいれる人がいい。
浮気ってどこからなのか、そんなことを考えているときに浮気は始まってる。
楽しくて気取ってなくて、いつまでも恋人同士でいられる人。すごく居心地がいい。
でも、私は30歳を過ぎた。特別だった私は30っていう見えないけど確実に存在する濃い線をまたいで、立派な大人という"こっち側"に立っている。なんとなく不安になる。50歳になったとき、この人の隣で私は笑っていられるだろうか。
結婚はいつかする。私が結婚したいと思ったとき、したいと思える人に出会ったら。
男に頼って生きるのは嫌。私は私のやりたいことをして生きたい。今はまだそこに夫や子供がいるのを想像できないだけ。
私はまだ妻や母になるタイミングじゃないだけ。
多くの女性がぶち当たったことがありそうな問題が12章に分けられた作中にこれでもかって盛りすぎなくらいに盛られていた。
理解が追いつかないくらいに盛ってくれていた。

私をその辺にいる女と一緒にしないで。私は特別なの。そうやって威勢よく自分を飾りつけしても一歩外に出たら誰にでも声をかけてるような男と目が合って、その辺の女と同じように声をかけられる普通の女でした。
そんなことを認めるわけにはいかなかった。認めたら私があまりにも可哀想だから、まだ”普通”から逃げていたい。
私はまだ好きな人の「おやすみ」と「おはよう」に挟まれて生きるだけにはなりたくない。
神様がみんなに平等に与えた「若い」っていう切り札を、若いころはそれを最大の切り札とも思わず消費期限ギリギリまで裏向きにして隅に放り投げている。
仕事なんていくらでもあるのに、やりたいことはいくらでもあるのに、私が出来ることは数えるほどしかない。「若い」を原動力にするには少し遅いみたいだ。
後ろめたいセックスはしないほうがいいってことを私たちは失敗から学んだ。
セックスの後に口移しで飲ませてもらう冷たい水が美味しくてあの頃は大好きだった。
ゲームセンターで取ってもらったぬいぐるみと、2人で撮ったプリクラはもう手元にない。
誕生日にもらった財布、物に罪はないからってしばらく使ってたけど飽きたから自分で新しいものに買い換えた。
最後に連絡をしたのはいつだったろう。最後に交わしたやりとりはなんだったろう。
感謝を伝えただろうか。あんたと付き合ってた時間は無駄だったと最後まで悪態をついただろうか。そんなことさえ忘れてしまったほどに、もう私はあの頃の私を水に流した。
愛するということは、人を好きでい続けることではなく嫌いになる隙がないことをいうんだと知る。
私に無いものを持っているあなたの持っていないものを私は持ちたい。そうやって補って補ってもらっていくうちに、しわくちゃの老人になれるなら、わたしは最高。
わたしは最悪。を観ているときにわたしの中に浮かんだ世界はこれだった。
ただ、鑑賞中の違和感や引っかかる部分を2日間じっくりと時間をかけて向き合った。作中で感じたハッキリとしているわけではない靄がかかった卑下されたような悔しさを拭いきれなかった。わたしの中に流れ続ける腹立たしさに似た悔しさの理由はなんなのかを探った。

監督は30代女性のリアルを描きたかったのか?
そもそも、リアルを描いたのなら「わたしは最悪。」という題名は不釣り合いではないのか?
女性のリアルを詰め込んで「最悪」と語らせるのはあまりにも最悪ではないか。ひどいではないか。悔しい。
この作品を観て自分の経験や現状と重ねて痛い部分を突かれた女性や、女性の恋愛や仕事の恥部のように今まであまり公にはされなかった部分を映画から考えさせられ理解した気になった男性。または理解できないけど理解を示そうとする男性や女性。
それらを全て願ったり叶ったりだ と狙いに狙らって練られた脚本に感じた。
違和感を感じるほどに多い主人公が体を見せるシーン。
元恋人は女性軽視とも取れる漫画の作家。付き合っているときはそんなの気にもしてなかった。
元恋人と一緒に暮らす空間で METOO運動とオーラルセックス という記事を書いた主人公が、元恋人が過激なフェミニストから攻撃されるのを見て言葉も答えも見失ったようなシーン。
妊娠はしたくなかった主人公が「失敗したんだと思う」と望まない妊娠を告げるのは、子供を欲しがっていた元恋人。
妊娠を望んでいたわけではないけど、妊娠したことに対して「おめでとう」と確実に言ってくれる人を無意識に選んで優しさに浸ろうとしているように見えた。
癌になって自分の最期を悟る元恋人に「君はいい母親になる」と、昔は言われたくなかった言葉を言ってもらいたくなる主人公。
本当に子供が欲しかったの?と元恋人に聞いたら「分からない」と素直に答えてくれる。本当の気持ちは最後まで言えないっていうけど、自分の最期を前に素直になる元恋人と弱った元恋人を前に命の尊さに触れ、ほんの少しだけ自らの身に宿った新しい命への責任感と子供を産む選択肢ができたように見える主人公。
彼氏に妊娠を告げ、それでも子供を望まない彼氏に中絶の選択肢が躍り出る。
METOO運動を支持しているであろう主人公でも、恋に落ちる相手が同じだとは限らない。恋する相手は選べない。選んで恋に落ちることはできない。文字通り恋はするんじゃなくて落ちるのだ。この世で一番恐ろしい落とし穴は恋なんだ。
この随所に見られる皮肉とも感じられる部分が、本作に対するわたしの悔しさだった。
「わたしは最悪。」という題名も、生物学的にネガティブになりやすい女性が、他人から見たらそんなに最悪ではない人生を最悪だと嘆くことを皮肉ってつけられているとしたら…。
もし、監督が女性の身に起こる苦悩を盛り込むことでフェミニズムによって芸術まで否定されつつある今の社会を映画という芸術をつかって皮肉で斬ったのだとしたら、わたしはそれはすごいと思う。
ここまで勢いよく書いてしまったけど、皮肉っていて嫌だったという感想ではなく
わたしは最悪。を観て女性のリアルという部分で刺さらなかったわたしが、この映画を観たあと数日間ずっと考えてしまっていることはかなり高評価に値するのかもしれないと思い当たっている。
女なんて生き物は単純なようで難解で、奥底のプライドの高さで自分を苦しめながらも、それでもなんとか生き抜いてきた。世界にオスとメスが誕生したその瞬間から平等ではなかった地位と平等にはしてくれなかった社会の構図の中で女はなんとか生き抜いてきた。
やっと少しずつ社会が変わってきた今、「30代女性のリアルを描いた」と話題になる映画。男性の監督と脚本家が出し合った、彼らから見た女性の姿はこんなにもちぐはぐなのか。
そんなことを思いながらも、きっとわたしは「わたしは最悪。」を楽しんだ。
よくも女性の痛い部分をこんなに失礼なほどに描いてくれたな。
さぁ、明日は土曜日。
酒を飲んで記憶を飛ばしても、二日酔いで寝込んでも日曜日がある。今日は何をしてもいいことにしようよ。