マスクで顔の半分、口元が隠れていることで煩わしさや気になる人の顔の全体像を把握できなくてもどかしさを覚える。それがコロナ禍における恋愛の障害のひとつなのかもしれない。
好きだと認めたくはないけど、きっとこの気持ちを何かの単語であらわすと”好き”以外のなんでもないことは私が一番わかっていて、私が一番認めてはいけない気がして上手く誤魔化せもしないのに誤魔化すように笑って”好き”を散布する。
大人になるということは恋をするのが容易ではないということだと、容易ではない恋につまづきながらカップ焼きそばのソースが絡んでない白いところを割りばしでほぐしながら思った。
人には言えないあれやこれやが私の中に層をつくる。甘いあれや、甘くはないけど思い出の土台になるこれや。あれやこれや。あれやこれやでミルクレープができましたよって意味の分からないことを大真面目な顔であの人に報告して困らせてみたい。
自信のない女だから、きっとマスクがなかったら見つめあうこともできなかったろうなと思うのです。マスクをつけないころから出会っているあなたのマスクなしの顔を私はもうあまり思い出せません。マスクを外して面と向かう機会がないほどには私とあなたは後ろめたいことがない関係なんだと少し安心もするのです。
コンプライアンスだとかセクハラだとか。恋の邪魔をしてくれるもんだから、じれったい。じれったいったらない。
「可愛いって思っててもセクハラになるから言えない」
「それは私のことを可愛いって思ってるってこと?」
「それも言わない」
「思ってること言えないって地獄だね」
コンプライアンスだとかセクハラだとか、そんなものは恋の障害物競争をヒートアップさせるだけなんだよ。どうかいくぐって甘い一言を手に入れるか試行錯誤していつの間にか恋に落ちちゃうんだよ。恋は大きい落とし穴。あ、本気のセクハラおじさんはコンプライアンスなんて理解してないから独走状態でみんな引いちゃってる。気を付けましょう。
それでも、この世の中には好きになってはいけない人がいます。
恋のアクセルを踏んでしまうあれやこれやが起きると、アクセルべた踏みになることはこれまでの人生で十分すぎるほどに知っているから右足には常にブレーキを踏ませているはずでした。でも、人間ですから。たまに疲れて足を休ませる瞬間がありますし、たまにブレーキの効きが悪いことだってあります。
好きになってはいけない好きな人の姿を探してキョロキョロしながら歩く日も一週間のなかで5日くらいはあります。ありますとも、好きになったらダメなだけで好きにはかわりありませんから。誰にも言わないから私くらいは私の素直な気持ちに服従して好きを認めてはいけない人の姿を見つけて、声なんか届くはずもない距離からマスクの中で「好き」って小さな声で言うんです。
周りの人たちにも私が好きって言ったあと悔しくなってマスクの中で唇を噛みしめてることなんて気づかれないですから。
ずるい女だから、あなたが私の目を見て世間話をして笑っているときも実はマスクの中で息を吐くくらいのすごく小さな声で「好き」「好き」「好き」って言ったこともある。聞こえるなって、伝わるなって思いながらも心臓のリズムが狂って体中の血液の波が私を飲み込んで溺れさせようとしてるみたいでトリップしそうだった。
あの人もマスクの中で「好き」って言ってたらいいのにね。
これが私の正しいマスクの使い方。