mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

ヒーローは痛みを感じるのか

 

 

生まれながらに骨が弱く、外出して怪我をしたり周りの人から陰口を言われることに怯えて家の中に引きこもる息子を少しでも外出させるために母親が計画する。外に置いたMARVELコミックを取りに行けば続きをまた外に置いてもらえる。

そうして、MARVELのヒーローに憧れた骨形成不全症の男性。

健康な人と比べると遥かに弱い自らの体を見て考える。「こんなに弱い人間がいるなら、ヒーローのように強い自分とは対極の人間が存在するのではないか…」

 

 

f:id:mumu_fuwa:20211229125417j:image

 

 

アンブレイカブルはMARVEL作品のヒーローのような人外な強さはなく、すごく地味で自分でもその強さに気付かず生活しているヒーローを見つけ出す。

 

 

 

 

 

ヒーローは私たちと同じ程度の痛みを感じているのだろうか?と思うことがある。普通なら立ち上がれないほどの力を受けても、更に立ち向かう彼らの痛覚を不思議に思う。

 

 

 

中学生の頃の友人が住んでいた市営住宅に隣接する、よかったらここで遊んでね みたいな素っ気ない空き地のような公園があった。その公園に繋がる5段の階段にいつも座っている男の子がいた。

いつも大声で怒られて、いつも母親から力いっぱい体を叩かれていた。その姿を見るのも怖いほど母親はヒステリックに声を上げる。男の子は声を上げない。あまりにも無音なその子が気になって目を向けると、その子はいつも笑顔だった。にこにこ母親を見上げ、自分に振り上げられる母親の腕や足から体を守る風でもなければ怖がる風でもなくただにこにこしていた。

まるで、自分のために帰ってきてくれた母を嬉しそうに迎える無邪気な子供みたいなその姿を初めて見たときは何が起きているのか分からなかった。

 

「痛みを感じない病気なんだって」

と、友人が話す。いつも母親だけ大声で怒鳴って子供は泣きもしなければ言葉も発さず母親の力を受け止め続けるらしい。市営住宅の中ではその親子は有名だった。

 

痛みを感じず、嫌がりもしない。それを通報する人はいなかった。誰かが通報するべきだったのかもしれないけれど、母親が目の前に現れたときの彼の笑顔を見ていると正解が分からなくなる気がした。

 

 

 

 

ヒーローは痛みを感じているのだろう。

もちろん、私たちと同じ程度ではないけれど痛いのだろう。彼らなりに。

痛みを感じないなら守れない。そういうことだろう。痛みを感じなければ自分の体を守ることさえできないのだから、公園の階段に座る少年みたいに。ヒーローにとって痛みはある意味で力なんだろう。きっと、そういうことだろう。

 

あまりヒーロー物を観ないので分からない上に人外な力を見せつけられると不思議な気持ちになってしまうのでわたしはヒーロー物に向いていないと思う。そんなわたしが好きなアンブレイカブルのヒーローの彼は本当に強い。

一生を捧げたいと思えるほど大切な女性のために怪我をしたと嘘をついて人生の舵を大きくきった彼は人として、特別な力を身につけたわけではない普通に暮らす人として、すごく強いヒーローだと思った。

 

 

 

わたしは、痛みに敏感でありたい。痛いことを痛いと声に出せたらもっといい。もちろん体の痛みもだけど、心の痛みに敏感でありたい。

わたしは心が強くない。むしろとても弱いと思う。格好つける必要がないのでもう一度言う。わたしは精神的に弱いです。とても。

傷つきやすく痛みに敏感で心が弱いことをわたしは悪いと思っていない。わたしの弱さを恥じてもいなければ、人の弱さを笑うこともない。

傷つきやすい人は、人の痛みを分かってあげられる強い人だと思うのでわたしは好きです。

 

 

 

 

 

2021年のうちに3つくらいブログに書きたいことあったんだけど、全く時間に余裕がなくて書く暇がないのでこれを今年最後の記事にします。30分ほどで書いたので誤字脱字がありそうです…見つけたらご指摘お願いします。

本当に、とてもとてもお世話になりました。みなさんの存在がわたしの力でした。

来年も、再来年も、わたしが続く限りどうぞよろしくお願いいたします。

 

mumu

 

ディア・エヴァン・ハンセン

 

嘘をついたことがありますか?

その嘘は人を傷つける嘘でしたか、自分を守る嘘でしたか、誰かを守る嘘でしたか、結果的にその嘘はあなたを苦しめましたか。

 

 

 

 

f:id:mumu_fuwa:20211222162308j:plain

 

ディア・エヴァン・ハンセン

 

 

 

 

わたしは頻繁に嘘をつく。

「大丈夫です。」と元気に答えて大丈夫だったことはほとんどない。自分に素直な気持ちほど言葉にできず大丈夫という言葉に変換して声に出して、大丈夫ということにする。もう何が大丈夫ではないのかさえ分からなくなるほど大抵のことは「大丈夫」になるように、先手を打つように嘘をついておく。

 

本当の自分なんて自分でも分からないほどで。できるなら自己紹介してほしい。わたしを教えてほしい、嘘はなしで。わたしはいま元気なのかさえ教えてもらいたい。もちろん、嘘はなしで。

 

 

人の苦しみを理解するのは難しい。人は人目や世間体を気にしてか、よく嘘をつく。

テレビに映るあの人の苦しみを知っていた人は誰一人いないのでしょうか。通勤通学時間の満員電車を止めたその人の苦しみを知っていた人は本当に誰一人いないのでしょうか。今もどこかで独り最期を選ぼうとしている人の苦しみや痛みには本当に誰一人気づいてもいなく、予想もできないものなのでしょうか。

 

 

消えてからやっと推し量られる彼ら、彼女らの気持ちはいつもどこまで行っても憶測にしかならず答えを求める人たちのその憶測さえなんだか少し的外れで。こんな憶測をどこかで見ている彼らは困っているのではないかと申し訳なくなるほどで。

 

どうか、どうか と祈ってしまう。

どうか彼ら彼女らだけは、自分で選んだ今に後悔がありませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺はお前を幸せにできない。」

そんなどこかで見たことがあるような聞いたことがあるような別れのセリフはもうそこに置いて、ここで本当のことをお互い言ってみませんか。

お前の幸せ なんて考えられないくらい、誰か愛しい人ができたんだと言ってみませんか。まるで私のためみたいに嘘をついて私が喜ぶと思っているのなら残酷な人ですね。

 

 

 

「友達と食べてきた。」

おかずを少しかじっただけでほとんど減っていないお弁当箱をトイレの個室に持ち込んでひっくり返した。毎朝早起きして綺麗に隙間なくお弁当箱に詰められた母の愛を痩せるためにもう何か月もトイレに流し続けた。夜も外で食べてきたとテーブルに並べられたご飯を横目に嘘をつく。後悔するのは、まだまだ先。

 

 

 

「次はお正月だね。」

夏の連休で実家に戻った帰り、新幹線に乗り込む直前に母が言う。別れが寂しいのかまた帰ってくるのを楽しみにしているのか。お正月には帰ってくるからと何度も繰り返してきた慣れた別れの挨拶をした。「お母さんが亡くなりました。」父からの連絡の意味が分からずスマホの画面を一度閉じる。お正月には命がないだろうと分かっていたらしい。新幹線に飛び乗って父と連絡のやり取りをしながら知った。実家につくと冬用の布団が用意されていた。布団が入ったカバーに「冬用」と母の字。自分のために親族が集まることを想定したその気遣いに腹が立った。その優しさは優しさではないと文句を言いたい。

 

 

 

 

 

 

 

人は一生で何個嘘をつくのか。

せめて自分自身にくらいは噓なく向き合いたいけれど、どうも難しい。

自分とさえもうまく向き合えないんだから他人とは上手くいかなくて当然だと開き直りたい。それが当たり前。ダメで元々。生きるのが下手くそだっていい。そんな自分を許してたまには甘やかして、そこで生まれた余裕で誰かを許し愛せたら。

 

 

 

そんなことを思った、ディア・エヴァン・ハンセン

予告やあらすじ、誰かの感想や口コミをほぼ見ないで映画館で観れたのは本当に良かった。みんな一人だと感じてもどうか独りにはならないでほしい。

 

 

 

M-1グランプリ 肉うどん

今週のお題「忘れたいこと」

 

 

 

2021年12月19日

M-1グランプリの決勝戦

 

 f:id:mumu_fuwa:20211220232114j:plain

 

わたしが5年ほど推しているロングコートダディが初めて決勝に進出した。

早くあのスタジオで漫才をするロングコートダディを見たいような、見たくないようなソワソワした日々を過ごした。

決勝前夜は緊張して眠れないくらいで何度も寝返りを打った。眠ることを諦めかけてiPhoneを開いたら、決勝に進出した推しがYouTubeでゲーム配信をしていた。何度も言う、決勝前夜。

 

 

 

 

笑いはバックボーンが大切だと思う。

中高生のころ、クラスメイトのお笑い担当の人気者が爆笑を生み出せたのは長い時間をかけて彼らが面白いと刷り込まれたから。今回のM-1を制した錦鯉を昨年と違った気持ちで見守った視聴者は多かったはず。それは昨年のM-1後からたくさんの番組に出演した二人の姿を見続けたから。苦労している話しも聞いたから。もちろん、昨年と比べると仕上がり方も全然違ったし大笑いした。おもしろかった。それが大前提だったけれど錦鯉の二人を知っている、いろんな番組で見せたいろんな姿が記憶にある、そのバックボーンもかなり大きいと思った。優勝おめでとうございます。

 

 

 

そんな中でまだあまり知られていないであろうロングコートダディが「肉うどん」というワードと一緒にTwitterのトレンドや、ネットの検索トレンドに入って、更にいろんな人の記憶に残ってくれそうでわたしは嬉しい。

2021年のM-1グランプリ、わたしは忘れたくても忘れられないと思う。

肉うどんを食べたくなるのは、肉うどんとして天寿を全うする兎さんのあの顔を忘れられないから。こんな癖になる忘れられないネタを考えてしまう堂前さんのせい。

 

 

そんな気持ちを抑えきれず出勤してすぐ仲のいい先輩に「推しがM-1の決勝に出るって話したの覚えてますか?」と切り出したら

「結婚したいくらい好きな、シュールなメガネでしょ?」と返ってきた。

わたしが先輩にしたロングコートダディのプレゼンに我ながらびっくりしたけれど、間違っていないので「それ!!」と大きく頷いた。

 

 

 

来年の年末、この記事のURLをつけて「あれから1年。今年のロングコートダディ。」と感想を書きたい。

 

もう忘れてしまいたいとすら思うほど、2021年のM-1はわたしの中で最高で忘れられない。

 

 

 

街で見かけても、声をかけたり目で追ったりして推しに迷惑をかけてはいけないとすぐに目をそらすようにしています。一生伝わらない気持ちを抱え込んでこれからも推します。

 

 

世間が求める女性像が生きにくい

 

踏切の遮断機の前。開かないでいい、ずっと。耳を塞ぎたくなるはずの警報音が今日は響いてこない。遠くで聞こえているような、聞こえてさえいないような。蛍を呼ぶ童謡のそれにも聞こえる。「おいで」と言われているような気がした。行こう。

 

 

 

 

 

女性が生きやすい世界とはどんなものをいうのでしょう。

 

「すべてを捨ててあなたについていく。」は女性のセリフであることが多いから、どこまでも虚しい。

 

女性とはどうあるべきなのでしょう。

いつもにこにこ静かに笑っているのが理想的な女性ですか。

なにを言われても笑って受け答えして場の雰囲気を壊さないのが理想的な女性ですか。

もしそうであるなら、そんな女性たちが身近にいるのなら、その彼女たちを育てたのはあなたの住むこの世界かもしれません。そうあるべきだと押し付けたのかもしれません。

そして、本当の彼女を知らないだけかもしれません。

 

卑屈なほどの背景を背にして、私達は女性という額縁に綺麗にはまる。

 

 

そんな女性像に綺麗にはまって完璧に女性をやり通す人。なにを言われても上手に切り抜ける彼女は、なにを言ってもいい人ではありません。

マスクの中で唇を嚙みしめるような言葉を投げつけられても笑ってその場を乗り切るのは、この世界で生きるため。ひとり涙を流すのは自分のため。

唯一。彼女が彼女のために、彼女の負った心の窪みに涙を落としていく。へこんでしまった部分を涙で補い、自らの涙で誤魔化し騙す。たまった涙に溺れていく。そうやって生きていくことを選ぶしかなかった。

 

 

こうやって女性になった私、散々泣いてスッキリした顔を鏡越しに私自身に見せてあげる私。

こんな私がいることを誰も知らないからこんな私を知っておいてよ、私。

きっと私が事件や事故に巻き込まれて消えてしまったら、「明るくていい子」だったと同僚たちは涙を流すのよ。私はいい子を演じたから、いい子でいれた。私はいい子で、それは「どうでもいい子」でもあるのよ、私。

 

 

ありのままでいいのだと、綺麗なお姫様が踊りながら歌っていた。

ありのままの私を見失った私が真剣に聴いていた。ありのままで生きている人を知らないからよく分からなかった。私はどこに消えてしまったのでしょう。

 

 

それでも、どうなっても、どこまでいっても、私は私だと、私を信じ続けた私を許してね、私。毎夜、その日に感じたことを胸いっぱいに持ち帰った。女性である前に私は私だった。

 

限界なんて見えませんから。限界なんて見せませんから。きっと突然プツンと切れてしまったように、電話が切れた後のあの機械音が流れ出す瞬間みたいに、限界なんて前触れもなく私を迎えに来てしまうでしょう。

言い残したいことはたくさんあります。言いたいことはいつも我慢していましたから。いつも言葉を飲み込んで言葉が喉に詰まって息苦しいほどでした。

 

傷つけたつもりはなかったあなたが、驚き苦しむ姿を見届けたいけれど。

またきっといつか会えます。

 

 

 

 

 

そんな風になるまで追い込まれませんようにと、今日もわたしはわたしで機嫌をとってから帰ろうと思う。

今、家に帰りついたら泣いてしまいそうで。弱さに溺れるのを避けるように。

 

女性という理由で我慢しなければならないことが減っていけばいいな。

傷を舐めあうことを笑う人がいようと、わたしは舐めることができる傷なら舐めたい。それで少し救われるなら。

 

 

 

踏切の遮断機が上がる。一歩踏み込む。

さあ、帰ろう。

 

 

魔女の宅急便

 

映画が好きだと自覚するずっとずっと前。

わたしは魔女の宅急便に出会って恋をした。

 

 

f:id:mumu_fuwa:20211215225133j:image

 

 

 

祖父が買ってくれた魔女の宅急便のVHS。何度も巻き戻して繰り返し見た。

ホウキに跨って空を飛ぶ主人公のキキに憧れた。わたしも空を飛びたかった。飛べると思っていた。親に頼んで竹ぼうきを買ってもらった。ワンピースを着て竹ぼうきに跨って坂道をジャンプしながら何度も下った。当時、実家で飼っていた猫はトラ模様の「トラちゃん」だったけど、ジジと呼んだ。慣れない名前で呼ばれるジジの顔はいつだって不機嫌だった。

わたしが猫派なのは、キキに寄り添って話しができるジジが可愛かったからだと思う。

 

 

 

 

わたしは、靴が好き。

特に赤い靴に目を奪われる。

 

f:id:mumu_fuwa:20211215232018j:image

 

キキが、赤い靴が飾られたショウウィンドウを覗き込むシーン。

わたしも赤い靴に心を奪われた。赤い靴が欲しかった。当時、わたしが持っていた赤い靴はキティちゃんの長靴だけだった。毎日履いた。幼稚園の親子遠足の集合写真、前列にしゃがんで写るわたしの靴は赤い長靴。空は冗談みたいに雲一つない青空。

 

 

 

キキみたいに、地元を離れてわたしの街を見つけなければいけないと思っていた。高校も県外に進学しようとしたらさすがに止められた。せめて高校までは と言う親の言葉を渋々飲み込んで高校生活は地元で過ごした。

 

地元を離れる日、わたしは新幹線の中でユーミンの「ルージュの伝言」と「やさしさに包まれたなら」を何度も再生させた。母が駅で買ってくれた駅弁を開けて食べる余裕がないくらいに泣いた。寂しさと母の愛にやさしく包まれたんだと思う。窓から見える景色が見慣れないものに変わる毎にキキの逞しさに気づかされた。

 

キキに憧れていた幼いわたしがキキよりお姉さんになって、ホウキで飛ぶことは叶わなかったけれど地元を勢いよく飛び出した。

 

キキのお父さんが言う。「いつの間にこんなに大きくなったんだろう、うまくいかなかったら戻ってきてもいいんだよ。」のスタンスでいつまでもわたしに優しい父は、わたしの前では涙を見せたことがないけれど、最近はゼクシーのCMを見るとわたしのことを想って泣くらしいことをデリカシーのない母が教えてくれた。

 

 

 

 

魔女の宅急便は、わたしの人生を引っ張てくれている気がする。

映画を好きになって、いろんな作品に出合って衝撃を受けてオールタイムベストが更新された!!だとか騒ぐことがあるけれど、私この映画が好きです。

 

 

ジブリって、すごい。