mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

ディア・エヴァン・ハンセン

 

嘘をついたことがありますか?

その嘘は人を傷つける嘘でしたか、自分を守る嘘でしたか、誰かを守る嘘でしたか、結果的にその嘘はあなたを苦しめましたか。

 

 

 

 

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ディア・エヴァン・ハンセン

 

 

 

 

わたしは頻繁に嘘をつく。

「大丈夫です。」と元気に答えて大丈夫だったことはほとんどない。自分に素直な気持ちほど言葉にできず大丈夫という言葉に変換して声に出して、大丈夫ということにする。もう何が大丈夫ではないのかさえ分からなくなるほど大抵のことは「大丈夫」になるように、先手を打つように嘘をついておく。

 

本当の自分なんて自分でも分からないほどで。できるなら自己紹介してほしい。わたしを教えてほしい、嘘はなしで。わたしはいま元気なのかさえ教えてもらいたい。もちろん、嘘はなしで。

 

 

人の苦しみを理解するのは難しい。人は人目や世間体を気にしてか、よく嘘をつく。

テレビに映るあの人の苦しみを知っていた人は誰一人いないのでしょうか。通勤通学時間の満員電車を止めたその人の苦しみを知っていた人は本当に誰一人いないのでしょうか。今もどこかで独り最期を選ぼうとしている人の苦しみや痛みには本当に誰一人気づいてもいなく、予想もできないものなのでしょうか。

 

 

消えてからやっと推し量られる彼ら、彼女らの気持ちはいつもどこまで行っても憶測にしかならず答えを求める人たちのその憶測さえなんだか少し的外れで。こんな憶測をどこかで見ている彼らは困っているのではないかと申し訳なくなるほどで。

 

どうか、どうか と祈ってしまう。

どうか彼ら彼女らだけは、自分で選んだ今に後悔がありませんように。

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺はお前を幸せにできない。」

そんなどこかで見たことがあるような聞いたことがあるような別れのセリフはもうそこに置いて、ここで本当のことをお互い言ってみませんか。

お前の幸せ なんて考えられないくらい、誰か愛しい人ができたんだと言ってみませんか。まるで私のためみたいに嘘をついて私が喜ぶと思っているのなら残酷な人ですね。

 

 

 

「友達と食べてきた。」

おかずを少しかじっただけでほとんど減っていないお弁当箱をトイレの個室に持ち込んでひっくり返した。毎朝早起きして綺麗に隙間なくお弁当箱に詰められた母の愛を痩せるためにもう何か月もトイレに流し続けた。夜も外で食べてきたとテーブルに並べられたご飯を横目に嘘をつく。後悔するのは、まだまだ先。

 

 

 

「次はお正月だね。」

夏の連休で実家に戻った帰り、新幹線に乗り込む直前に母が言う。別れが寂しいのかまた帰ってくるのを楽しみにしているのか。お正月には帰ってくるからと何度も繰り返してきた慣れた別れの挨拶をした。「お母さんが亡くなりました。」父からの連絡の意味が分からずスマホの画面を一度閉じる。お正月には命がないだろうと分かっていたらしい。新幹線に飛び乗って父と連絡のやり取りをしながら知った。実家につくと冬用の布団が用意されていた。布団が入ったカバーに「冬用」と母の字。自分のために親族が集まることを想定したその気遣いに腹が立った。その優しさは優しさではないと文句を言いたい。

 

 

 

 

 

 

 

人は一生で何個嘘をつくのか。

せめて自分自身にくらいは噓なく向き合いたいけれど、どうも難しい。

自分とさえもうまく向き合えないんだから他人とは上手くいかなくて当然だと開き直りたい。それが当たり前。ダメで元々。生きるのが下手くそだっていい。そんな自分を許してたまには甘やかして、そこで生まれた余裕で誰かを許し愛せたら。

 

 

 

そんなことを思った、ディア・エヴァン・ハンセン

予告やあらすじ、誰かの感想や口コミをほぼ見ないで映画館で観れたのは本当に良かった。みんな一人だと感じてもどうか独りにはならないでほしい。