mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

SNSとかフォロワー数とか

 

 

SNSがわたしの生活の一部になってもう10年くらいになる。

スマホが普及して一気に身近なものになった。Twitterは初めてわたしが始めたSNSで、これに慣れてしまっているから他のInstagramTikTokに違和感があってアカウントを作るだけで、投稿などはほぼしていない。

 

 

3年半くらい前に、YouTuberがすれ違う女性の容姿を罵倒し「ただいまブスにつき映像が乱れております。」だとか言う動画を載せたことがある。小さな炎上が起きて、彼らのファンはそれでも守る言葉を並べていたし、彼らも罵倒している女性には動画の内容を撮影前に説明済みであることを盾にして謝罪の動画を載せて再生回数をのばしていた。

当時、有難いことにある程度のフォロワー数があるTwitterアカウントを運用していたのでこの騒動が簡単に鎮火してしまう前に一石を投じて小さな影響を与えることができたのだけど。

 

ネットが普及していろんな人が意見を投げやすくなったけど、その声に大小の差があることはもどかしい。その差は発言内容の正しさではなくフォロワー数の差による場合が多いから悲しい。発言権が大きい人がどう見ても丸いものを四角だと言えば、それに続いて四角だと言い始める流れに違和感がある。フォロワー数や登録者数は努力の結果だと思うけれど、ネットを利用するのが当たり前なこの世の中で自分を、自分の意見を、気持ちを、感覚を、声の大きな人に影響されて気づかないうちに失くしてしまうことを恐れてほしい。わたしはそれを恐ろしく感じることを忘れたくないと思っています。

 

 

先に出したYouTuberの件も。

目指すものや憧れるものはそれぞれ違うけど、綺麗でいたい可愛くありたいと思っていない女性なんていない。動画内で容姿に触れられる女性だって、説明を受けていたとしても嬉しい内容ではないはずだと思った。ちなみに、これは女性だから男性だからで感想は変わらないし、そこに差があってはならないと思う。

そして、見ている側の気持ちも。とてもじゃないが、容姿を貶し笑う様子を見てよい気持ちにはならない。逆に動画内ですれ違いざまに言われる酷い言葉を見て、もし面白いと思えるならその感覚を改めたほうがいい。好きなYouTuberがやっていることを全て肯定するのはファンだからではない、洗脳だと思う。

 

 

 

わたしはこの一件があって、SNSを含むネットとの付き合い方を見直した。

フォロワー数や登録者数の多い人が、どう考えても間違っていることを正解だと言えばその通りになってしまうネットの中ではわたしの感覚が迷子になって帰って来れなくなる気がしたから。

 

 

 

SNSの中に憧れの人や目標の人ができて、それが人生を明るくしてくれることはすごく良いこと。でも、自分も素敵だって気づいてね。

あなたを殺してしまわないでね。この時代に負けないで。