mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

片想いもできなくなって。

 

一目見て、なんだか苦手だと思った人に限って好きになってしまう現象になにか名前があるのか。本能が好きになるスピードのあまりの速さに恐れて「苦手」だと少しのブレーキを踏ませているのだとしたら。無意識に傷つくことを察して自分を守ろうとしているのだとしたら、好きなんて自傷行為なのかもしれない。

 

 

 

恋の始まりによくある気になる人を目で追いかけるそれを気づけば繰り返している自分に恥ずかしくなってしまう。視界に入るその人のことはただ気になるのか、好きになってしまっているのか。もう手遅れなのかもしれないけれど認めるにはまだ早い気がして答えを出すのを先延ばしにする。

そもそも気になる人と、好きな人の差はなんなのか。その差はどのくらいの違いなのか。好きだから気になっているのではないかなんて、もっともらしい答えに辿り着きかけて考えるのをやめた。

 

 

 

太陽の陽を浴びてキラキラと光る水面を見て水中の美しさを想像するそれは一目惚れに似ていると、水溜りに映るぼやぼやとしたイルミネーションを見て思う。好きなアイドルがテレビ番組で言っていた言葉を思い出す。

「見た目が好きじゃなきゃ、中身を知ろうとしない」

ごもっともだと思った。見た目が全てではもちろんないけれど、一目見た瞬間にいつの間にか存在する合格ラインを超えていないと中身に興味を持ってもらえない。そんな虚しさと、自分の中にも存在する合格ラインに気づいて胸の奥にどろっとしたものが流れる。

 

 

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あなたの体温を知ったらきっと壊れてしまう。私自身も、あなたも、この平凡な生活も。後戻りはできなくなってしまう。進んだところで未来のない関係を恋や愛だと理由をつけて快楽に溺れてしまうという選択はあまりにも簡単で愚かであることは分かりきっていた。ふたりの間を何往復もしたこの感情は誰にも語られることはなく永遠で、それは誰も知らないふたりのだけの事実。

 

 

 

あなたが私を選んでくれるのなら、選ばれなかった他の女から嫌われても私は平気だと思えるような恋愛はもうできなくなっていた。誰にも嫌われたくない、恨まれることも憎まれることも、ましてや自ら敵を作るようなことを恋愛なんかでするもんかと平和と言えば聞こえがいいつまらない生活を選択する大人になった。

 

 

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電気を消してベッドに横になり眠りに落ちるその瞬間に手を繋ぐときのような温かさと安心感とくすぐったさを運んでくるあの人への想いが沸き起こることを「好き」と呼ぶのなら、私は恋をしているのでしょう。好きを説明することはできないけれど、好きな人はきっとあなたです。

 

 

 

 

明日あなたに会えないなら、明日なんかいらない。

明日あなたに会えるのなら、今すぐ目を閉じて明日に向かう。

 

 

 

 

 

 

※創作文です。

 

 

ジュリア・ロバーツがプリンセスになったわけ

 

プリティ・ウーマン

 

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ポスターはなぜかリチャード・ギアの髪の毛を黒髪に加工してあるので、あまり好きではありません。

 

 

プリティ・ウーマンはわたしが今世でこれ以上の恋愛映画に出会えないと思わされた作品。この作品の影響でリチャード・ギアはわたしの中で永遠の王子様になった。何歳になっても。若い素敵な俳優がどんどん出てくるけれど、プリティ・ウーマンエドワードを演じたリチャード・ギアはいつだって完璧だった。いつも時代とともに現れる王子様のようなビジュアルをした俳優を微笑んで置いてけぼりにする。彼はずっとわたしの王子様。

 

そんなわたしの永遠の王子様の心を盗んだのはジュリア・ロバーツ演じるヴィヴィアン。ストーリーは、今更わたしが文字に起こすのも恥ずかしいほど有名なので割愛するけれど。もし観たことがない人はぜひ観てほしい。1990年、30年以上前の作品でありながら女性軽視を描きヴィヴィアンが信念を貫く姿は古臭くなく、現代にも問いかけてくるものがある。

 

 

ヴィヴィアンは美しかった。見た目はもちろん、友人を想いやる行動も発する言葉もめぐる思考も夢見る姿もエドワードを見つめる瞳も。女性軽視に涙し反発する姿は弱々しく強かった。エドワードの不器用なのかひねくれたのか恥ずかしいのか、中途半端な愛を受け取らずに自らの夢を選ぶその姿は目標とする女性像そのものだった。そんな彼女の魅力はエドワードの心を開かせ引き寄せて気持ちのままに、衝動的に情熱的に行動させたんだと思う。

 

 

 

 

 

愛されたくて愛してほしいアピールのように相手に合わせる私はいつも誰にも愛されることなく、気づけばひとりぼっちだった。自分自身を大切にできていない人を愛してくれる人はいないのかもしれない。愛してほしいともがく私は結局、私しか愛していないことに気づかれているのかもしれないと私が気づくのはもっともっと先になる。

誰も傷つけることなく愛を語ることは難しい。傷つく相手が私自身であるうちは苦しい。傷つける相手のことを考えもしなくなるのは悲しい。傷なくして愛は成り立たないと忘れてしまわないように人は失恋を経験させられるのかもしれない。

 

 

 

憧れの人や目標とする人、成功している人や多くの支持を集める人。そうなりたいと思う。私もそうなれたらと行動を起こして夢を追う。それは時々「私も価値ある人間だ」「私も特別だ」と気持ちを向上させた先に闇を掴ませる。素直にそう思えず、思い込むように言い聞かせるようにする自らの思考にプレッシャーを感じるのかもしれない。自らの価値や特別感を守るために誰かや何かを批判し、それらの価値を下げることによって自分の価値を高い場所に置く。自らと同等か少し下にある存在と比べては妬み批判し自分を安心させるために壁を作る。

そんなことをしなくてもあなたのことを見ている人も認めてくれる人もいる。なりたい自分への近道は憧れの人の真似をすることでも誰かを下に見ることでもなく、オリジナルな部分を認めてほしい人に見てもらい受け入れてもらうこと。

きれいごとかもしれないけれど、綺麗に生きていきたいわたしはそう思う。そうやって強くなりたい。

 

 

 

 

断れない女性をもてあそぶ男性に、眉間にしわを寄せて目線を送ることは簡単だった。ヴィヴィアンは断れる女性だった。人を下に見ることも上に見ることも、自分を偽ることも恥じることもなく。受け入れてほしい人に自分の見てほしい部分を飾ることなく表現する女性だった。自分に向き合って正しくある女性は、自分に正しく向き合ってくれるエドワードにプリンセスヴィヴィアンと呼ばれる女性になった。

 

 

 

 

自分を見失いたくないとプリティ・ウーマンを観て何度も教えられる。

わたしは自分の良さが分からないからこそ自分を見失いたくないと思う。

心くらいはプリンセス ヴィヴィアンでありたい。

 

 

映画好きの映画館嫌い(HSP)

 

このブログの記事がほぼ映画から派生されていくものばかりなので、今更言うのも照れくさいけどわたしは映画が好きです。Amazon primeNetflix、Disney+に入会して毎日のように映画を観ています。何度も言うけど、映画が好きです。(詳しいかは別として)

 

映画が好きなのに映画館に行くのはとても億劫。ここからHSPの特徴と関連していくのだけど、HSPと一言でまとめても特徴や敏感になるもの・不安になるものは人それぞれなので当てはまらない人も当てはまる人もいると思う。

 

 

映画館に行くというだけでいろんな不安が頭を駆け巡る。

・上映時間に間に合うかとにかく不安(公共交通機関の遅延など)

・予約した席と上映時間を間違えている気がして確認メールを何度も開く

・途中でトイレに行きたくなったら困るから水分補給を控える

・後ろの席が子供や小柄な人だったら観えないかもしれないから体を屈める

・服のこすれる音や飲み物を飲む音が迷惑にならないように極力動かない

・涙が流れて鼻をすすったり涙を拭くしぐさが気を散らせてしまう気がする

 

逆に、わたしはすごく音や衝撃などに敏感で神経が尖りやすいので…

・音のないシーンで咀嚼音やいびきが聞こえると映画どころではない

・目の前の人が動いたりスマホを触ったりすると映画どころではない

・持ち込んだコンビニご飯とか横で食べられたら映画どころではない

・後ろの人にシートを蹴られると怖くなって映画どころではない

etc…

 

 

 

本当に気になることや、不安に思うことはたくさんあって1人で映画を観に行く分には自分だけの問題だからいいのだけど友人と一緒に行くときは

「おもしろいかな?」「つまんなくないかな?」「本当は他の観たいとか思ってないかな?」「わたしが映画の邪魔になってないかな?」

とか、考え出したらキリがなくて1人のほうが気楽なので映画は1人で行くものだと決めている。なるべく注目作は公開されて時間が経ってから席に余裕が出始めてからゆっくりと観に行くように心がけている。やっぱり人が多いとそわそわしてしまってお金を払って観るのに頭に全くストーリーが残らないともったいないので。

 

だからって、人に対してわたしと同じように神経質になって映画館では大人しくして観てよ!!!なんて思っているわけではなくて

人の出す音で映画に集中できなくなったりするのはわたしの体質なので受け入れています。

そして、ポップコーンもジュースも音を立てて飲んだり食べたりするのは大いに楽しんでくれー!と思っています。映画館で売っているものを買って映画を観ながら飲食することは当たり前に良いこと(お客様も映画館もウィンウィン)なのでどんどん食べて飲んでほしい。

マナー違反になるものに関しては、ちょっと…という部分があるのでマナーは守ってほしいです。映画館存続のためにも。

 

 

 

 

映画が大好きなのに映画館が苦手だと言うと、「え?」って顔や反応をされてしまうけれどHSPさんは5人に1人の割合でいます。程度によるけれど、すごく敏感な人はもっといろんなことに気を取られて生活していると思う。

それでも大好きなものに触れたくて趣味を楽しみたくて少しずつ慣らしたり、努力したりしてると思う。

 

映画館に関してはマナーを守ってみんなが楽しめる空間であればいいなと思います。

 

 

 

 

ラスト・ナイト・イン・ソーホーのメッセージ

 

映画になにを求めるかは人それぞれで、その映画から何を感じてどう評価するかはそれぞれの感性によるのでわたしが感じたものを誰かが感じていなくとも、誰かの感想がわたしとは全く違うものでも、それは至極当然のこと。

 

 

 

 

2022年の初映画館は2021年の作品だった。

ラストナイト・イン・ソーホー

 

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わたしは所謂フェミニストなのかもしれない。わたしは女性の無力さを知っている。それは歴史的なものでも、現代にも広がる女性差別的な社会問題でもない。単にわたしが生きてきた世界の話。単にわたしや、わたしの知る女性の日常に起こるもの。

 

2021年はME TOO運動に影響を受けてか、賛同する著名人が多かったためか、女性搾取を扱う作品が多く、映画からグサリと刺さるようなメッセージが発信され続けた1年だった。そのせいか、昨年は例年に比べていろんなことを考えた。考えさせてもらえた。いろんな意見を見聞きすることもとても多かった。悲しくなるような、苦しくなるような意見もたくさんあったけれどそりゃそうだ。現実はもっと苦しいのだから。涙スイッチを押してくるような意見や発言は溢れている。ネットにも現実にも。仕方ない、みんな違う考えを持っている。

 

そんな1年を過ごしたわたしは、ラスト・ナイト・イン・ソーホーに足を引っかけられたような気持になった。女性搾取問題をホラーに落とし込むことで女性の起こした行動がホラーに繋がる虚しさを感じてしまった。これはわたしの勝手な気持ちなのでこの作品に謝らなければいけない、反省しなければいけない。

 

 

 

 

 

 

私たちは余裕がない。自分で思っているよりもっともっと。私たちは余裕がないから懸命に暮らす。学校であったり仕事であったり、頑張ることで自らを削ることで社会の一部になる。頑張っている自分に安心すらしているのかもしれない。頑張っていないと社会という和に入れない気がするのかもしれない。そうやって削り続けて薄くなった自尊心が私を突き放す。「お前いらない」

 

逃れることも抗うことも勝つこともできないような無敵な加害者は社会だった。社会という加害者に抱きかかえられるように吞み込まれる命ある私たち人間。私たち全員が被害者だった。被害者は被害者を生む、この連鎖を作ったのも社会。生きている間は社会に抱かれ続けなければいけない。社会はあまりにも残酷だった。社会はほとんどの時が優しくなかった。

それでも、人はときどき優しかった。たまに気持ち悪いくらいに優しい人がいる。伸ばしてもいないこの手を取って引っ張ってくれる人がいる。世界は社会に呑み込まれた私たちをたまに気にかけてくれる。生きることは簡単ではないけれど、世界には人生よりいいものなんてない。

 

 

 

 

わたしは、18歳のときに性被害にあった。

若いうちはよくあることだと言われた。シャワーを何時間も浴びた。記憶も感触も流れてはいかなかったけどそうするしかなかった。一人暮らしを始めて間もない、まだ夜は肌寒い夏の前だった。

わたしは、「若いうちはよくあること」をなくしたい。年齢なんか関係なくなくしたい。そんなものはあってはいけない。もうシャワーを浴びながらそこに誰もいないのに、誰にも聞かれないようにと声を殺して泣き続けた18歳のわたしのような女性をこの社会に存在させたくない。警察に行く勇気もなかったわたしを恥じている。加害者を加害者にできなかったせいで二次被害者を生んだことをいまだに後悔している。

 

もう負けたくない。弱いけれど弱いだけでは終わらない人間になりたい。

 

 

負けるな、ぜったいに。

負けるな女の子。

 

 

 

 

看板になりたい

 

年末年始がバタバタと過ぎて、もう2022年も5日目になりました。

新年の挨拶大変遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

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昨年末に考えるでもなしに考えていた2022年の豊富のような人生の目標のような、そんな大袈裟に言うのも恥ずかしいようなもの。

先にTwitterに年末の挨拶と共に載せたので。

 

mobile.twitter.com

 

 

 

大きな成功や、大きな夢を成し遂げている人に憧れを抱きつつ自らに劣等感を抱いてしまうような日もある。余裕がないと憧れが妬みに変わり批判的な態度や感情を抱いてしまうときだってある。そんな自分を責めてしまう自分まで出てきて、自分さえも自分を許し認め愛せていないことに落ち込みつつ嘲る。

 

そんな1年をまた過ごしていることに気づきながら、帰り道の曲がり角のそれを見上げた。曲がるときにいつも無意識に見上げるそれはわたしがこの街に住み着いたときには飼い主を待ち続けたハチ公のように「たばこ」の看板だけが時間と店主から取り残されても律儀に光っていた。

仕事帰りのとっくに日が落ちて地面の色も思い出せそうにないほど夜の黒が染みついた世界を、毎日それが癖になってしまっているみたいに光を灯す看板が曲がり角を照らす。

 

寂しい?と聞いてみたいと思うことがある。看板に感情があるなら看板が喋ることができるなら、寂しいのかいっそのこと撤去されて繰り返される朝と夜を終わりにしたいかと。

その問いが看板からそのまま返ってきたような気がしてドキリとした。わたしは寂しいと思うことはあっても本当の意味で寂しいわけではない。寂しい存在でもない。疲れて無意味な気がしてしまうような日々を繰り返しているけれど、わたしはきっと無意味な日々を過ごしてはいない。朝を迎え夜になる、当たり前の毎日をやめてしまいたくはない。まだまだ。

 

 

わたしはこの看板のようになりたい。

私は貝になりたい。」みたいな言い回しと、雨にも負けずの「そういうものに私はなりたい。」みたいな悟りを含んでしまって恥ずかしさと申し訳なさを感じるけれど。

目立ちはしなくとも、わたしという存在が誰かの何かの意味になれたらいい。その意味がわたしに伝わることなくどこかで浮いて一瞬で沈んでしまうような意味をも持たなかった意味だとしても、それはそれでわたしらしくてとてもいいじゃないかと思う。

 

ただ生きるだけでは味気ない気がしてがむしゃらになれる何かに出会えたらいいなと思うけれど、私たちはきっと十分すぎるくらい味のある存在なんだろう。味のある命なんだろう。もう十分。許し認め愛して自分自身を全うしたい。