mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

ジュリア・ロバーツがプリンセスになったわけ

 

プリティ・ウーマン

 

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ポスターはなぜかリチャード・ギアの髪の毛を黒髪に加工してあるので、あまり好きではありません。

 

 

プリティ・ウーマンはわたしが今世でこれ以上の恋愛映画に出会えないと思わされた作品。この作品の影響でリチャード・ギアはわたしの中で永遠の王子様になった。何歳になっても。若い素敵な俳優がどんどん出てくるけれど、プリティ・ウーマンエドワードを演じたリチャード・ギアはいつだって完璧だった。いつも時代とともに現れる王子様のようなビジュアルをした俳優を微笑んで置いてけぼりにする。彼はずっとわたしの王子様。

 

そんなわたしの永遠の王子様の心を盗んだのはジュリア・ロバーツ演じるヴィヴィアン。ストーリーは、今更わたしが文字に起こすのも恥ずかしいほど有名なので割愛するけれど。もし観たことがない人はぜひ観てほしい。1990年、30年以上前の作品でありながら女性軽視を描きヴィヴィアンが信念を貫く姿は古臭くなく、現代にも問いかけてくるものがある。

 

 

ヴィヴィアンは美しかった。見た目はもちろん、友人を想いやる行動も発する言葉もめぐる思考も夢見る姿もエドワードを見つめる瞳も。女性軽視に涙し反発する姿は弱々しく強かった。エドワードの不器用なのかひねくれたのか恥ずかしいのか、中途半端な愛を受け取らずに自らの夢を選ぶその姿は目標とする女性像そのものだった。そんな彼女の魅力はエドワードの心を開かせ引き寄せて気持ちのままに、衝動的に情熱的に行動させたんだと思う。

 

 

 

 

 

愛されたくて愛してほしいアピールのように相手に合わせる私はいつも誰にも愛されることなく、気づけばひとりぼっちだった。自分自身を大切にできていない人を愛してくれる人はいないのかもしれない。愛してほしいともがく私は結局、私しか愛していないことに気づかれているのかもしれないと私が気づくのはもっともっと先になる。

誰も傷つけることなく愛を語ることは難しい。傷つく相手が私自身であるうちは苦しい。傷つける相手のことを考えもしなくなるのは悲しい。傷なくして愛は成り立たないと忘れてしまわないように人は失恋を経験させられるのかもしれない。

 

 

 

憧れの人や目標とする人、成功している人や多くの支持を集める人。そうなりたいと思う。私もそうなれたらと行動を起こして夢を追う。それは時々「私も価値ある人間だ」「私も特別だ」と気持ちを向上させた先に闇を掴ませる。素直にそう思えず、思い込むように言い聞かせるようにする自らの思考にプレッシャーを感じるのかもしれない。自らの価値や特別感を守るために誰かや何かを批判し、それらの価値を下げることによって自分の価値を高い場所に置く。自らと同等か少し下にある存在と比べては妬み批判し自分を安心させるために壁を作る。

そんなことをしなくてもあなたのことを見ている人も認めてくれる人もいる。なりたい自分への近道は憧れの人の真似をすることでも誰かを下に見ることでもなく、オリジナルな部分を認めてほしい人に見てもらい受け入れてもらうこと。

きれいごとかもしれないけれど、綺麗に生きていきたいわたしはそう思う。そうやって強くなりたい。

 

 

 

 

断れない女性をもてあそぶ男性に、眉間にしわを寄せて目線を送ることは簡単だった。ヴィヴィアンは断れる女性だった。人を下に見ることも上に見ることも、自分を偽ることも恥じることもなく。受け入れてほしい人に自分の見てほしい部分を飾ることなく表現する女性だった。自分に向き合って正しくある女性は、自分に正しく向き合ってくれるエドワードにプリンセスヴィヴィアンと呼ばれる女性になった。

 

 

 

 

自分を見失いたくないとプリティ・ウーマンを観て何度も教えられる。

わたしは自分の良さが分からないからこそ自分を見失いたくないと思う。

心くらいはプリンセス ヴィヴィアンでありたい。