mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

看板になりたい

 

年末年始がバタバタと過ぎて、もう2022年も5日目になりました。

新年の挨拶大変遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

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昨年末に考えるでもなしに考えていた2022年の豊富のような人生の目標のような、そんな大袈裟に言うのも恥ずかしいようなもの。

先にTwitterに年末の挨拶と共に載せたので。

 

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大きな成功や、大きな夢を成し遂げている人に憧れを抱きつつ自らに劣等感を抱いてしまうような日もある。余裕がないと憧れが妬みに変わり批判的な態度や感情を抱いてしまうときだってある。そんな自分を責めてしまう自分まで出てきて、自分さえも自分を許し認め愛せていないことに落ち込みつつ嘲る。

 

そんな1年をまた過ごしていることに気づきながら、帰り道の曲がり角のそれを見上げた。曲がるときにいつも無意識に見上げるそれはわたしがこの街に住み着いたときには飼い主を待ち続けたハチ公のように「たばこ」の看板だけが時間と店主から取り残されても律儀に光っていた。

仕事帰りのとっくに日が落ちて地面の色も思い出せそうにないほど夜の黒が染みついた世界を、毎日それが癖になってしまっているみたいに光を灯す看板が曲がり角を照らす。

 

寂しい?と聞いてみたいと思うことがある。看板に感情があるなら看板が喋ることができるなら、寂しいのかいっそのこと撤去されて繰り返される朝と夜を終わりにしたいかと。

その問いが看板からそのまま返ってきたような気がしてドキリとした。わたしは寂しいと思うことはあっても本当の意味で寂しいわけではない。寂しい存在でもない。疲れて無意味な気がしてしまうような日々を繰り返しているけれど、わたしはきっと無意味な日々を過ごしてはいない。朝を迎え夜になる、当たり前の毎日をやめてしまいたくはない。まだまだ。

 

 

わたしはこの看板のようになりたい。

私は貝になりたい。」みたいな言い回しと、雨にも負けずの「そういうものに私はなりたい。」みたいな悟りを含んでしまって恥ずかしさと申し訳なさを感じるけれど。

目立ちはしなくとも、わたしという存在が誰かの何かの意味になれたらいい。その意味がわたしに伝わることなくどこかで浮いて一瞬で沈んでしまうような意味をも持たなかった意味だとしても、それはそれでわたしらしくてとてもいいじゃないかと思う。

 

ただ生きるだけでは味気ない気がしてがむしゃらになれる何かに出会えたらいいなと思うけれど、私たちはきっと十分すぎるくらい味のある存在なんだろう。味のある命なんだろう。もう十分。許し認め愛して自分自身を全うしたい。