mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

ヘイト・ユー・ギブ(肌の差別)

 

 

ヘイト・ユー・ギブ(2018年公開)

2009年にアメリカで起きた事件を基にした作品。

 

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黒人差別と表現されるそれらは、生まれ持った肌の色だけで疑いの目を向けられる理由になるということ。これはあくまでわたしの解釈であり、ネットで検索すると出てくる正しい説明とは異なるけれど。

 

何人が殺されれば終わるのか。何度この話題を繰り返せば世界は変わるのか。変わらないなんて思いたくない。変わらない世界を見たくない。

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、長く緩い人生という名の自殺行為をしながら生きている。アメリカの大統領だって、ノーベル賞を受賞した素晴らしい人だって、世界中に影響を与える歌手や俳優だって、名も知られていないような中小企業で働く人だって、学校に行けず自室で過ごす子だって、カカオを収穫するのが仕事なのにチョコレートという食べ物を見たことがない子供だって。迎える結末は同じ。

 

 

私たちは自分を「なにができるか」で判断するけれど、他人には「実際になにをしたか」で判断される。

少しずれてしまうけれど、差別にもこれに似た差があるのではないかと思う。それは仕方ないことと言えばそれまでのこと。でも、もうその仕方ないを無くしませんか?日本にいるとそこまでリアルには感じられないこの問題は、同じ地球に暮らす同じ人間の問題なのだから目をそらすのをやめませんか?

 

わたしが黒人差別の問題に触れると間違ったことを言うかもしれないという不安もある。でも、知識が少なかったりこの件に詳しくなかったりそもそもそ学がないと意見を言ったらダメなんてことはない。生まれ持った肌の色で差別をしてはいけない、されるべきではない。それだけは分かる。

 

 

 

 

 

 

銃を構える黒い肌の子供。小さな子供。それは肌が黒いことで白人警官に銃を向けられる親を守るため。その子が見る世界は「肌の色」は関係なかったはず。それでも、言葉を理解する毎に世界を理解する。白が悪い、黒が悪いではない。その子が見ている光景は親が殺される世界。いつか自分も肌の色を理由にして銃を向けられてしまうかもしれない世界。

日本にいると実際にこんな現場に出くわすことはほぼないだろう。それでもヘイト・ユー・ギブを観て、ひとつひとつの会話がわたしに向けられているようだった。幼い子供が構えた銃は画面を通してわたしに向けられていた。

 

性別が違う、生まれた国が違う、話す言葉が違う、これだから命は最高だと思おう。みんな異なっていることが素晴らしいと思おう。違う部分を素敵だと認めよう。