mumu’s blog

映画で感情を乱しながらエッセイ書いています。

MCU最新作 エターナルズを観て

 

※エターナルズのストーリーにはほぼ触れません。

 

 

 

 

エターナルズを観て思ったことが何個かあったので残しておこうと思う。

 

 

聴覚障害を持つ仲間が違和感なく彼らの生活に馴染んでいるのを見ていて、先日わたしがお話しをしたご家族のことを思い出した。

 

そのご家族は、奥様が自閉症という病気で旦那様から「妻はコミュニケーションがうまく取れないので僕のほうがたくさん話しちゃいますね」とにこやかに説明された。その横で小学校低学年の娘様がにこにことわたしを見ていた。

カフェのメニュー表を開き、飲み物を決める。「コーヒーとジュースはどちらがいいかな?寒いから温かい飲み物がいいかな?店内は暖房が効いているから冷たい飲み物でもいいかもね?」といろんな選択肢を広げる旦那様の声を聞きながら、うんうん と真剣にメニュー表を見つめる奥様。何分が過ぎただろう?と思わず時間を気にするほどゆっくりとメニューを決めていた。

娘様が痺れを切らし「ママまだ?」と大きな声をあげる瞬間があって、ひやりとしてしまった。このひやりとした気持ちを隠してしまいたかったけれど、隠してもあの日のわたしは消えない。きっとあれは図星だった。

 

「美味しそうなものがたくさんあるから、簡単には決められないよ。自分が楽しく何かを選んでいるときに人に急かされたら嫌でしょ?こういうときはみんなで楽しまないと!」と笑顔で娘様に答える旦那様の姿を見て、ハッとさせられた。

選ぶべき言葉が見つからず上手く表現ができないので、悪い例えになってしまうけれど…「できない人のペースに合わせる」という驕りがわたしの中に少なからずあったのだと気付かされてハッとしてしまった。

旦那様は奥様と出会って今のような大きな心で家族を包んでいるのか、それとももともとおおらかで朗らかな方だったのかと家族のやり取りを見ながら考えた。きっとどちらも持ち合わせていて、だからこそあんなに温かいんだろう。

 

エターナルズを観ているとき、ずっとこの日のことを思い出していた。仲間を庇い、支えることに美しい愛を感じたけれど、きっとエターナルズの10人にはほぼその意識はないんじゃないかと思う。そうすることが素晴らしいからしているわけでも優しさでしているわけでもなく、ごく当たり前に過ごしている姿なんだろうと思った。

目立ちはしないところで、きっとわたしたち人間の中にエターナルズがいる。特殊な能力も戦闘力もなく、一見ヒーローには見えないかもしれないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの祖父は、わたしが産まれたときには緑内障という病気で光を微かに感じる程度でほぼ盲目に近かった。

このわたしの祖父はヒーローだった。

子供の頃のわたしは祖父が特殊能力を持ったヒーローだということに気づいてはいなかった。

祖父はたくさんの昔話の絵本を読み聞かせてくれた。ページをめくりながらわたしに細かく読んで聞かせてくれた。思い返せば、全て記憶を辿りながら昔話を教えてくれたことに気付かされる。他人が聞けば些細なことかもしれない。でも、たくさんの昔話をなにも見ないで最初から最後まで話して聞かせてください と言われて、できる人がどれだけいるだろう?

 

エターナルズを観た帰り道に祖父を想った。目が見えない祖父の手を引いて歩く幼い頃のわたしを思い出した。「おじいちゃん危ないからわたしと手を繋いで!」と言う幼いわたしがいた。正しいかは分からないけれど、ある意味でこれもエターナルズの形なのではないか。

エターナルズは人種や年齢、身体の特徴は関係なく支え合い戦う姿を見せているけれど、実は当たり前にある形を描いているのかもしれない。

 

 

エターナルズの感想というよりは、エターナルズの姿に重ねて現実世界にある見落としがちなものを見つめることができたので忘れないようにここに残す。

 

もちろん、先に出したご家族の話しは設定や内容を本来とは少し違うかたちにしてあります。あの素晴らしいご家族の日常をわたしのブログに勝手に明け透けに書くことはしません。

 

 

 

これを読む人はとても少ないと思うけど、読んだ人の日常にもエターナルズのようなヒーローを見つけられますように。

誰かを傷つけるより、誰かの手にそっと自らの手を添えられる人が必要な場所で存在しますように。